はじめに
「ルサンチマン」は、ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェが、『道徳の系譜学』(1887年)でキリスト教道徳を「奴隷の道徳」として批判した時に使用した「ターム」です。タームとは、「専門用語」です。
一般的には「ルサンチマン」とは、(特に「強者」や「優者」に対する)「嫉妬」、「憎しみ」、「恨み」等です。
ニーチェは、「ルサンチマン」が生み出す、「弱者」や「劣者」の生を肯定する「道徳」を「奴隷の道徳」と呼びます。
それに対し「強者」や「優者」の生を肯定する「道徳」を「貴族の道徳」と呼び、「奴隷の道徳」に対置して重視し、「超人(スーパーマン)」を目指しました。
しかし、ニーチェの道徳思想は、全体主義を生み出したとも評価されます。
では「ルサンチマン」をどう乗り越えるべきでしょうか。
普遍としての人権を手掛かりに、その問題について少し考えます。
世界人権宣言における普遍としての「人権」や「法の支配」が前提にする「人間」観
All human beings are born free and equal in dignity and rights. They are endowed with reason and conscience and should act towards one another in a spirit of brotherhood.
https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
世界人権宣言における「人間」と「パーソナリティ」と「教育」の関係性
Education shall be directed to the full development of the human personality and to the strengthening of respect for human rights and fundamental freedoms. It shall promote understanding, tolerance and friendship among all nations, racial or religious groups, and shall further the activities of the United Nations for the maintenance of peace.
https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html
教育は、人間的なパーソナリティの完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。教育は、すべての国又は人種的若しくは宗教的集団の相互間の理解、寛容及び友好関係を増進し、かつ、平和の維持のため、国際連合の活動を促進するものでなければならない。(一部改訳)
米ソ冷戦後における国連による人権の普遍性の確認と日本の現状
1999年の人権擁護推進審議会答申は、日本の現状を次のように指摘しています。
人権擁護推進審議会とは、法務大臣の諮問に応じる為に設置された審議会です。
このように我が国には今なお様々な人権課題が存在するが,その要因としては,人々の中に見られる同質性・均一性を重視しがちな性向や非合理な因習的な意識,物の豊かさを追い求め心の豊かさを軽視する社会的風潮,社会における人間関係の希薄化の傾向等が挙げられる。国際化,情報化,高齢化,少子化等の社会の急激な変化なども人権問題を複雑化させる要因となっている。また,国民一人一人において,個々の人権課題に関して正しく理解し,物事を合理的に判断する心構えが十分に備わっているとは言えないことが,それぞれの課題で問題となっている差別や偏見につながっているという側面もある。
このような様々な人権課題が存在する要因の基には,国民一人一人に人権尊重の理念についての正しい理解がいまだ十分に定着したとは言えない状況があることが指摘できる。
現に,総理府が平成9年7月に実施した「人権擁護に関する世論調査」において,基本的人権が侵すことのできない永久の権利として憲法で保障されていることそれ自体を知らないと答えた者の割合が,回答者全体の20.1パーセントを占めており,その結果から見ても,基本的人権についての周知度がいまだ十分とは言えない状況にある。同世論調査では,権利のみを主張して他人の迷惑を考えない人が増えてきたと思うと答えた者の割合が,回答者全体の82.9パーセントにも上っており,この結果からも,自分の権利を主張する上で他人の権利にも十分に配慮する必要があるという認識がいまだ国民の間に十分に浸透していないことがうかがわれる。https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/jinken/06082102/016/008.htm
日本国民は非「人間」か?
繰り返しますが、人権擁護推進審議会答申は、「国民一人一人」について「物事を合理的に判断する心構えが十分に備わっているとは言えない」と指摘しています。
国民一人一人において,個々の人権課題に関して正しく理解し,物事を合理的に判断する心構えが十分に備わっているとは言えないことが,それぞれの課題で問題となっている差別や偏見につながっているという側面もある。
合理的な判断能力には、「理性(reason)」が必要になります。
世界人権宣言が前提にする「人間」観でも、“reason”が第一に挙げられています。
“reason”とは、「理由」、「動機」、「道理」、「理屈」、「論拠」、「前提」、「正気」、「思慮」、「分別」、「推理力」、「判断力」、「理知」等です。
“reasonable”とは、「道理を弁えた」、「訳の分かる」、「無理を言わない」、「理性のある」、「道理に合った」、「筋の通った」、「無理の無い」、「穏当な」、「程良い」、「手ごろな」、「妥当な」、「応分な」等です。
もし学校のカリキュラムや受験勉強のターゲットが、“reason”や“reasonable”の「発達」にない場合、いくら授業や受験勉強に専念しても「人間」には成れないでしょう。
もし志望校(例えば、東大)に合格しても、「人間」には成れないでしょう。
では、日本国民の全人口の中で、「リーズナブル」でない人間は何%位いるのでしょうか。
①20%?
②50%?
③90%?
④99%?
⑤99.9%?
⑥99.99%?
「一流大学」に合格しても「人間」には成れない(成「人」困難性)?
それは一般的な意味での「疎外」かも知れません。
ヘーゲルでは、精神が自己を否定して、自己にとってよそよそしい他者になること。マルクスはこれを継承して、人間が自己が作りだしたもの(生産物・制度など)によって支配される状況、さらに資本主義社会において人間関係が主として利害打算の関係と化し、人間性を喪失しつつある状況を表す語として用いた(「疎外」、『広辞苑(第6版)』)。
人間は自己が作り出した公教育、特に受験体制や偏差値教育によって支配され、「人間性」を喪失するのかも知れません。
その場合、当人も苦悩しているのですが、苦悩の原因を十全に理解出来ず、問題を解決出来ないのかも知れません。
普遍としての人権と差異のアンバランス
普遍としての人権は、差異のある複数の人間の共存や共生を可能にする共通項です。
しかし、日本の人間界では、普遍としての人権としての共通項が殆どシェアされていないという説もあります。
現に,総理府が平成9年7月に実施した「人権擁護に関する世論調査」において,基本的人権が侵すことのできない永久の権利として憲法で保障されていることそれ自体を知らないと答えた者の割合が,回答者全体の20.1パーセントを占めており,その結果から見ても,基本的人権についての周知度がいまだ十分とは言えない状況にある。
そうすると人間界では、部分的には普遍と差異のバランスが崩壊しているかも知れません。
そうすると諸差異の対立は、調整出来ないかも知れません。
価値観の差異の相互尊重も難しくなるかも知れません。
共存や共生は難しくなり、「棲み分け」が必然化するかも知れません。
「ルサンチマン」の一般的な意味
①ニーチェの用語。弱者が強者に対する憎悪や復讐心を鬱積させていること。奴隷道徳の源泉であるとされる。
②一般に、怨恨・憎悪・嫉妬などの感情が反復され内攻して心に積もっている状態。(「ルサンチマン」、『広辞苑(第6版)』)
ニーチェの「ルサンチマン」の意味
ニーチェが言う「ルサンチマン」とは、一般的な意味での単なる「怨念」、「憎悪」、「嫉妬」ではありません。
ニーチェ独自の意味があります。ニーチェは次のように言います。
道徳における奴隷一揆は、ルサンチマン(怨念 Ressentiment)そのものが創造的となり、価値を生み出すようになったときにはじめて起こる(フリードリッヒ・ニーチェ[信太正三訳]『ニーチェ全集Ⅱ 善悪の彼岸 道徳の系譜』ちくま学芸文庫、1993年、p.393)。
ニーチェが言う「ルサンチマン」とは、①「怨念」、「憎悪」、「嫉妬」+②道徳的価値の創造性です。
「怨念」等とは、「貴族的な価値方程式」への「怨念」等です。
貴族的な価値方程式とは、「善い=高貴な=強力な=美しい=幸福な=神に愛される」です(同上書、p.388)。
しかし、現実の世界では、当事者は無力である為に、貴族的な価値方程式に対して、本当に抵抗したり闘争したりすることは出来ません。
要するに、ニーチェが言う「ルサンチマン」とは、「貴族的な価値方程式」に対する自分自身の「怨念」や「憎悪」や「嫉妬」を、無力である為に、当事者の心理内部で道徳的に正当化することです。
ニーチェはそのような心理内部での正当化を「奴隷の一揆」と捉え、彼等の道徳を「奴隷の道徳」と評価しました。
一揆とは、「支配者への抵抗や闘争を目的にした武装蜂起」です。
人権は「貴族の道徳」/「ルサンチマン」?
人権が前提する普遍主義的「人間」観は、「貴族の道徳」でしょうか。
その「人間」とは、真偽、善悪を自己決定する主体です。「強い個人」です。「弱者」ではありません。
そうすると「人間」には、「貴族の道徳」の側面があるかも知れません。
差異ある人間は、「貴族の道徳」としての普遍に対して「ルサンチマン」を抱くかも知れません。
差異は普遍をズラしたり、すり替えたりするかも知れません。
しかし、普遍が無いと諸差異の共存や共生も難しくなるかも知れません。
また、「差別」や「偏見」も定義出来無くなるかも知れません。
そうすると果てしない「すれ違い」が生まれるかも知れません。
他方、人権には、「人間の尊厳」の平等や友愛の精神もあります。
これは差異ある「人間の尊厳」の承認かも知れません。
「人間の尊厳」も「ルサンチマン」なのでしょうか。
あるいは「貴族の道徳」なのでしょうか。
「ルサンチマン」の心理的起源
ニーチェによれば、「ルサンチマン」の心理的起源とは、「強者」や「優者」を自分達と同じような「弱者」や「劣者」に引きずり下ろして、「恨み」を晴らそうとする点にあります。
ニーチェによれば、キリスト教的な「ルサンチマン」の特徴とは、「利己主義」を否定し「利他主義」を肯定する点にあります。
キリスト教的な「ルサンチマン」は、「倫理的優越性」を目指します。
しかし、「ルサンチマン」とは評価出来ない「利他主義」や「愛」もあるかも知れません。
例えば、マザー・テレサの「愛」は、「ルサンチマン」でしょうか。
あるいは、本当の愛でしょうか。
既に述べたように、ニーチェは、「善い=高貴な=強力な=美しい=幸福な=神に愛される」を貴族的な価値方程式と考えました。
マザー・テレサの愛は、「ルサンチマン(奴隷の道徳)」ではなく「貴族の道徳」なのでしょうか。
ICUのある教員は、彼女はブルジョワジー出身なので普通のキリスト者とは違うと評価していました。
出身「階級」が決定的な原因なのでしょうか。
彼女はブルジョワジーなので「貴族的な価値方程式」への「怨念」が殆ど無く、自分の「怨念」を道徳的に正当化する必要が無かったのでしょうか。
あるいは、違うのでしょうか。
必然と偶然の問題でしょうか。
必然は、因果律の世界でしょうか。
例えば、「因果応報」の仏教や近代科学等でしょうか。
偶然は、仏教の縁起の展開形でしょうか。
例えば、華厳宗(教)や真言密教的世界観(空海)を示す南方熊楠の「南方曼荼羅」でしょうか。
トニー・ブレアとは違う意味での「第三の道」でしょうか。
<参考資料>
土田杏村『華厳哲学小論攷』内外出版、1922年(山口和宏「土田杏村における「教養」の問題ーその思想的根底としての華厳の世界観についてー」、『日本の教育史学』第36号、1993年)。
鶴見和子(上智大学名誉教授。元日本共産党党員(鶴見俊輔説)。祖父⇒後藤新平伯爵=NHKの前身の初代総裁等歴任)『南方熊楠ー地球志向の比較学ー』講談社学術文庫、1981年(毎日出版文化賞受賞作)。
服部英二の「通底」論も「ルサンチマン」?
比較文明学者の服部英二の「人間」観とは、宗教的(キリスト教的?)「人間」観であり、普遍主義的「人間」観と一致しません。
何故ならば啓蒙主意(義?――引用者)とは、理性・感性・霊性という人間の能力のうち、理性のみに突出した優位を与える立場であり、人はこの時代精神の中にあっては、本来の全一的(Holistic)な自然認識を失って行かざるを得なかったからである。
ユネスコ等における「文化的多様性」の承認要求としての「通底」論も、「科学主義の陰に置かれ無視されてきた文化的なもろもろ」の「ルサンチマン」なのでしょうか。
あるいは違うのでしょうか。
私は筑波大学の先導する日欧学術協働シンポジウムが、人文科学の領域で「対話」の真の意味を明らかにしてくれることを期待している。対話は自らの変化を包含するもので、「越えていく」こと、他者の尊重による互恵に向かうものである。一つの重要なアプローチは、今まで科学主義の陰に置かれ無視されてきた文化的なもろもろの価値を再発見することであろう。地上のあらゆる場所で、時の帳に隠れつつ育まれてきた母性原理は、再認識されるべきもの一つであろう。我々の追求すべきは「深みにおける出会い」である。人類のすべてがおのおのの文化的アイデンティティーを生きながら、その魂の奥底で出会うことである。そこにこそ異なった文明を超えた通底の価値、すなわち新しい地球倫理の基礎、が見出されるであろう。
「ルサンチマン」の実践のリスク
ニーチェが言う「ルサンチマン」とは、人間の心理世界内部で「恨み」を晴らそうとするものです。
換言すれば、その外部である人間の現実世界で、「恨み」を晴らそうとするものではありません。
従って、「ルサンチマン」が現実世界で実践されれば、もう「ルサンチマン」ではなくなります。
そうなれば、様々な場面で、「恨み」を晴らす実践が行われます。
人間関係を解消した後にも、他者の公(共)私的生活に侵入して執拗に「恨み」を晴らそうとし、「棲み分け」も出来ない人間もいるかも知れません。
他にも、例えば、悪口や意地悪、嘘やデマ、軽蔑や侮辱、虐めや虐待や嫌がらせ、差別、殺傷事件、テロリズム、革命、戦争、虐殺等もあるかも知れません。
虐殺の一つの事例は、ナチスによるホロコーストでしょうか。
そうすると「ルサンチマン」を実践すると、「実害」を伴うかも知れません。
実害とは、自他の人間や生物を傷付けることです。
「ルサンチマン」の実践者は、次のような意味での「サイコパス」と重なるかも知れません。
反社会的人格の持ち主を表す言葉。日本語訳は「精神病質者」。サイコパスは「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」で精神障害者と定義されており、病名としては反社会性パーソナリティ障害に該当するとされている。サイコパスの特徴的性格は、冷酷・無慈悲・尊大・良心の欠如・罪悪感の薄さなど。診断は「HARE PCL-R第2版テクニカルマニュアル」に定められた20項目を用いて専門家により行われる。フィクションの世界では異常犯罪者として扱われることがあるが、実際に犯罪を犯す者は稀。確立された治療法はない。
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%91%E3%82%B9-173303
「サイコパス」の典型は、ホロコーストを遂行したアドルフ・ヒトラーかも知れません。
「ルサンチマン」の実践の譬え話し(1)
あるデパートにあるパン屋があるとします。そのパン屋には、チーフとして高卒の人間がいるとします。その人間は、30才代、東北地方出身、農業高校出身かも知れません。
その人間は、東京都等の(エリート)大学生に「ルサンチマン」を抱いているとします。しかし、心理的世界の中で「ルサンチマン」を抱えているだけでなく、職場でも実践するとします。
具体的には、大学生のアルバイトに虐めを繰り返して、直ぐに辞めさせてしまうとします。その点については店長も困っているが、注意出来ないとします。
このように「ルサンチマン」の実践には、「実害」も確認出来るかも知れません。
学歴の差異やそれに伴う様々な「不利益」に対して不満がある場合、もっと「合理的な解決手段」があるかも知れません。しかし、それを考えずに職場で大学生に対し虐めを繰り返しても、不満の場当たり的で八つ当たり的な「一時的な解消」に過ぎず、「根本的な解決」にはならないかも知れません。
一つの「合理的な解決手段」は、「政治」、特に「民主主義」でしょうか。
その場合、「政治」、「民主主義」の教育も必要でしょうか。
「民主主義」には、「奴隷の道徳」ではなく「貴族の道徳」も必要でしょうか。
「ルサンチマン」の実践の譬え話し(2)
偏差値が高く有名な「一流大学」を卒業して女性がいるとします。その女性は、ブルジョワジー出身とします。幼稚園からキリスト教系学校に通っていたとします。大学卒業後、その女性は、大企業でなく中小企業に就職したとします。
職場の直接の上司は、複数の高卒の女性社員だったとします。しかし、女性上司達は、仕事を教えない等によってその女性に嫌がらせをして、「ルサンチマン」を実践したとします。しかも、一向に収まる気配が無かったとします。
その女性は数年間我慢したとします。それでも、嫌がらせは止まなかったとします。最終的に、その女性は結婚退社によって、嫌がらせから「解放」されたとします。
終わりにかえて
「ルサンチマン」を乗り越えないと、その人間は一生「虚偽意識」の世界を生きる「奴隷」に
止まるかも知れません。
「精神の奴隷」でしょうか。
そうすると死ぬまで「真理」に到達出来ず、普遍を生きることが出来ないのかも知れません。
もし事実の場合、「奴隷」ではなく「貴族」として勇敢に生きる必要があるかも知れません。
「精神の貴族」でしょうか。
しかし、「ルサンチマン」の「文化的多様性」への展開は、議論の余地があるかも知れません。
「ルサンチマン」も「文化的多様性」なのでしょうか。
あるいは、違うのでしょうか。
他方、「ルサンチマン」の実践は、リスキーです。
そうすると「ルサンチマン」を乗り越える方法は、心理世界内部での「ルサンチマン」に止めずにそれを実践することではなく、「貴族」として勇敢に生きることではないでしょうか。
それは「英雄」として生きることとも重なるかも知れません。
しかし、どうしても「貴族」としても「英雄」としても、勇敢に生きられない人間もいるかも知れません。
そういう人間についての検討は、今後の課題とします。