はじめに
西洋近代の市民革命の理念は、「自由、平等、友愛(連帯)」です。近代日本もこの理念を受容・展開しようと努力しました。しかし、国民主権や人権が保障されたのは、ポツダム宣言を受諾した以降の日本国憲法によってです。
国家権力による戦後民主主義の啓蒙では、自由は「良心の自由」、平等は「人格の尊厳」の平等として展開されました。しかし、友愛(連帯)をどう受け止めたのかは不明です。
平等がメリトクラシー(能力原理)と結合した機会均等としてのみ展開されると、「能力」のある人間は尊く、「能力」の無い人間は尊くないと評価される可能性があります。そうすると「人格の尊厳」の平等は、ずっと実現しなくなる可能性があります。
平等がメリトクラシーと結合した機会均等を媒介にした社会的流動性の拡大としてのみ発想され展開されると、「人格の尊厳」は破壊される可能性があります。
戦後日本の「平等」観の転換
戦後日本では、「人格の尊厳」の平等は、メリトクラシーと結合した機会均等を媒介にした社会的流動性の拡大としての平等に転換されて展開された可能性があります。
その可能性は、教育社会学者の苅谷剛彦の次の「平等」観からも伺うことが出来ます。
学校でも、成績の評価が子どもの出身階層によって露骨に差別されるようなことはない。少なくともかたちの上では、教育はだれにでも開かれているし、学校のなかで人びとは公平に扱われる。こうして、多くの人びとを教育という営みに巻き込み、公平に扱い、そのなかで人びとの能力を評価する。そして、そこで評価された能力が、将来の成功へとつながるパスポートになる。教育を大衆にくまなく与え、しかも「平等」な扱いをほどこす社会を、たしかに私たちは実現させたのである(苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえー学歴主義と平等神話の戦後史ー』中公新書、1995年、p.9)。
しかし、苅谷が考える「平等」な社会を日本が真に実現させたのかは議論の余地があるでしょう。
苅谷は血統原理を基礎にした象徴天皇制(公式の国民統合原理)の存在を忘却している可能性があります。また、それと結合した日本のカトリック系学校の存在も視野に入っていません。
そうすると苅谷が考える「平等」な社会はある程度部分的に実現したものかも知れません。しかし、そうだとしても、戦後日本では、平等をメリトクラシーと結合した機会均等を媒介にした社会的流動性の拡大とする発想様式が生まれたことは事実でしょう。
メリトクラシーの“climb out”効果
マクロ的に見れば、平等がメリトクラシーと結合した機会均等として展開すると、次のような二つの社会的機能を持つ可能性があります。
①「階級」あるいは「階層」あるいは「地域」の再生産。
②「階級」間あるいは「階層」間あるいは「地域」間の移動。
苅谷のような再生産論者は①を強調します。左翼の再生産論者でも①を強調する者はいます。
そういう研究者にとって②は「例外」として除外されます。しかし、この「例外」扱いは慎重に考える必要があります。
もしかしたら彼等は過度に①を強調している可能性もあります。その場合、その過度の強調に彼等がどのような利害を持っているのかを考える必要があります。
また、彼等が「例外」と考えるものが、実は人間や社会に対して大きな影響力を持っている場合もあります。その一つは筆者が“climb out”効果と呼ぶものです(金子聡「メリトクラシー(能力原理)の貫徹としての差別からの解放―自尊心の破壊による生の破壊の可能性―」、『季論21』第24号、本の泉社、2014年春号)。
ここで言う“climb out”とは、メリトクラシーと結合した機会均等が、個人を「階級」、「階層」、「地方社会」等のカテゴリーによってグルーピングされた所属集団から抜け出させ、不幸にさせる現象を意味します(堀尾輝久『現代教育の思想と構造―国民の教育権と教育の自由の確立のために―』岩波書店、1971年、pp.102~103、236)。
“ climb out”効果については、様々な国の様々な学問分野の研究者が指摘しています。例えば、文化的再生産論を提唱したフランスの社会学者ピエール・ブルデューは、1989年に来日した時に堀尾等と鼎談した際、学校制度を媒介に社会的に上昇した人間達(ブルデューは「奇跡を受けた者たち」と呼ぶ)について次のように述べました。
これらの人々のかなり多くが六八年の学生運動の過程あるいはその後で超保守主義者になりました。彼らは古典的な左翼=共産党から古典的な右翼、あるいは極右に変わりました。学生運動は彼らに大変な精神的外傷を与えました。学生運動は彼らの自己像、アイデンティティを破壊してしまったのです(ピエール・ブルデュー+堀尾輝久+加藤晴久「いま教育に何を求めるのか」、『世界』第541号、岩波書店、1990年5月、p.120)。
日本でも古くから“climb out”した人々は、破壊された自己の自尊感情やアイデンティティの社会的基礎を修復する為に、左翼、新左翼、過激派、右翼、宗教(伝統宗教と新興宗教)、アンダーグランド等に向かうことが知られていました。
そうすると、“climb out”効果は世界的な現象だった可能性もあります。
機会均等による人間の秩序間の移動
平等がメリトクラシーと結合した機会均等として展開されると、人間の秩序間の移動を発生させます。機会均等が教育の機会均等であれば、学校という場を通して人間は秩序間を移動します。
学校という場では、差異のある人間がミックスされます。差異の配合比率は学校によっても時期によっても違う可能性があります。
東大や京大等の偏差値の高い国立大学や早稲田大学や慶応大学などでもそうでしょう。
学校という場でのミックス状態は、「混交」と言えます。「階級」や「階層」や「地域」等ののカテゴリーによっては敵対的な関係になる場合もあります。こうなると「フレンドシップ」の成立は難しくなります。
また、お金の配分に大きな関心を持つ者もいれば、それ程大きな関心を持たない者もいます。
他への侮辱は社会的距離があれば実質的に無害である場合もあります。一つには会わなくて良い為です。しかし、機会均等により社会的距離が縮小し、ミックスし始めると、侮辱的な表現や扱いは他を酷く傷付け、耐え難いものにする場合もあります。
ここで面倒なのは、自分に対する侮辱的な表現や扱いは「差別」として一切許さないのに、自分が身体化している他への侮辱的な表現や扱いは全く「差別」として認めない人々です。つまり他を「差別」する「被差別者」の問題です。
しかし、その「差別」は身体化されたものなので、無意識的あるいは半無意識的に行われるでしょう。
https://www.satoshi-kaneko.com/justice/875/
この人々は秩序間を移動する前は目立たない存在だったかも知れません。しかし、移動する場によれば、他を「差別」する「被差別者」は大きな問題になります。
その問題の一つには、「田舎者」問題があります。
『広辞苑(第6版)』(岩波書店、2008年)によれば、「田舎者」には二つの意味があります。
①「田舎の人」、「田舎育ちの人」。
②「物を知らない粗野な人をさげすみ、ばかにしていう言葉」。
筆者が問題にする「田舎者」とは、②の意味の「田舎者」です。「田舎者」は他を「差別」する「被差別者」です。
「田舎者」には「日本国民としてのメンバーシップ」も無いかも知れません。
「田舎者」問題は今でも日本ではタブーでしょうか。
日本の大きな問題の一つは、「差別」が曖昧に考えられている点だと思います。「差別」の定義が曖昧だと、「差別」と「区別」の区別も曖昧になります。
そこが曖昧だと「差別」は、触れてはいけない面倒な事柄として忌避されます。そうすると果てしなく問題は解決されず、平行線を辿るでしょう。
これは非生産的では無いでしょうか。
おわりに
ここでは平等がメリトクラシーと結合した機会均等としてのみ展開された場合、「人格の尊厳」の平等を破壊する可能性があります。
恐らく「人格の尊厳」の平等が破壊される側面は三つあると思います。
①メリトクラシーによって振り落とされる、高い「能力」を示さない人間の「人格の尊厳」の破壊。
②“climb out”した人間の「人格の尊厳」の破壊。
③“climb out”した人間による他の「人格の尊厳」の破壊。