渡部昇一の世界

はじめに

渡部昇一は1930年に山形県鶴岡市で生まれた英語学者、カトリック=イエズス会系上智大学名誉教授である。

上智大学文学部英文学科卒業、上智大学大学院西洋文化研究科修士課程修了、Universitat zu MunsterからDr.phil.magna cum laudを授与された(渡部昇一の「略歴・主要業績」、『英文学と英語学』第37巻、上智大学英文学科、2000年)。

カトリック信者である。

渡部は、上智大学文学部英文学科在学期の自己について「私より貧しい人間はいなかった」と証言している(渡部昇一『知的生活の方法』講談社現代新書、1976年、p.82)。

渡部は、「世界を考える京都座会」のメンバーの一人でもあった。

「世界を考える」と自称する同座会は、パナソニック(旧ナショナル)の創設者である松下幸之助が設立した組織である。

1980年代に渡部は、「教育の自由化」を推進した、自民党の中曽根康弘政権期の臨時教育審議会の専門委員も歴任した。

渡部は所謂「新自由主義」の教育への適用を推進した可能性がある。

前史

国連は、1948年に世界人権宣言を、1966年に法的拘束力を持つ国際人権規約を採択した。

その後、国連は法的拘束力を持つ女性差別撤廃条約(1979)や子どもの権利条約(1989)等を採択し国際人権法を発展させた。

1989年、米ソ冷戦が終結した。1991年、ソ連が崩壊し、市場経済がグローバル化した。

1991年、カトリックの緒方貞子上智大学名誉教授が、国連の難民高等弁務官に就任した。

1993年、国連は世界人権会議で人権の普遍性・相互依存性・相互不可分性を確認し、翌年、国連人権高等弁務官を創設し、グローバルな人権レジームを形成し始めた。

1995年、国連は「人権教育のための国連の10年」をスタートさせた。

1999年、世界経済フォーラム(ダボス会議)でコフィー・アナン国連事務総長が「グローバル・コンパクト」を提唱し、日本では朝日新聞等が参加した。

(2018年には、フジ産経グループのフジ・メディア・ホールディングスも、同コンパクトに参加した)。

1999年、人権擁護推進審議会答申が出され、日本でも人権教育が重視され始めた。

2001年1月、アナン国連事務総長(当時)が来日した際、森首相(当時)の提案を受け12名の有識者から構成された「人間の安全保障委員会」の創設が発表され、共同議長に緒方貞子国連難民高等弁務官(当時)とアマルティア・セン・ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ学長(当時)が就任した。

「人間の安全保障」は、日本の外交政策の支柱になった。外務省は、「人間の安全保障」を次のように説明している。

人間の安全保障とは,人間一人ひとりに着目し,生存・生活・尊厳に対する広範かつ深刻な脅威から人々を守り,それぞれの持つ豊かな可能性を実現するために,保護と能力強化を通じて持続可能な個人の自立と社会づくりを促す考え方です。グローバル化,相互依存が深まる今日の世界においては,貧困,環境破壊,自然災害,感染症,テロ,突然の経済・金融危機といった問題は国境を越え相互に関連しあう形で,人々の生命・生活に深刻な影響を及ぼしています。このような今日の国際課題に対処していくためには,従来の国家を中心に据えたアプローチだけでは不十分になってきており,「人間」に焦点を当て,様々な主体及び分野間の関係性をより横断的・包括的に捉えることが必要となっています。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/bunya/security/index.html

2005年7月、国連総会で行動計画改訂案の採択等を定めた「人権教育のための世界計画決議」が無投票で採択された。

日本は共同提案国だった。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinken/kyoiku/index.html

補論ー補助線としての渡部昇一が「敵」視した朝日新聞ー

日本を代表するリベラル派の新聞の一つに朝日新聞がある。

以前は「クオリティ・ペーパー」と評価されていた。現在は不明である為、確認が必要である。

渡部は朝日新聞を「敵」視して来た。

1952年、朝日新聞は、次のような「四綱領」を制定した。

一、不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和の確立に寄与す。
一、正義人道に基いて国民の幸福に献身し、一切の不法と暴力を排して腐敗と闘う。
一、真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中正を期す。
一、常に寛容の心を忘れず、品位と責任を重んじ、清新にして重厚の風をたっとぶ。

https://www.asahi.com/corporate/guide/outline/11051801

米ソ冷戦が終結した1989年、朝日新聞のスクープを契機とするリクルート事件によって竹下登自民党政権が崩壊した。

1991年、カトリックの緒方貞子上智大学名誉教授が、国連の難民高等弁務官に就任した。

緒方の義父は、2・26事件による朝日新聞社襲撃事件に対応した緒方竹虎朝日新聞主筆だった(今井清一「二・二六事件と朝日新聞社襲撃事件」、『思想』第433号、岩波書店、1960年7月)。

その後、緒方はJICA理事長、外務省顧問等も歴任した。

1993年、上智大学法学部卒業、元朝日新聞記者の細川護熙の連立政権が成立し、日本版冷戦対立の55年体制も終結した。

渡部昇一の「人権」私見と「不平等主義」(2001)

2001年(?)、渡部は産経新聞から出版した『国民の教育』の中で、20世紀の「平等」は「基本的人権の平等」でないと自分自身の私見を主張した。

二十世紀の悪魔もとても甘美で誘惑的な言説を弄してきた。そして、その芯になった言葉こそが「平等」だった。

「平等」という言葉の響きはとても美しく、それはいつの間にか基本的な人権の平等ではなく、現象的な平等に変わった。経済や社会において「平等」が実現されなければならないということで、私有財産が否定され、相続権が廃止され、さらに貧富の差をなくすために、生産手段・流通手段さえも国有化しなければならないというように進んでいったのである(渡部昇一『国民の教育』産経新聞社、2001年、p.354)。

渡部は「人権」私見は、「第一世代の人権」と言われる自由権を軸にしている可能性がある。

他方、日本国憲法や国際人権法では、「第二世代の人権」と言われる社会権も保障されている。

1948年の世界人権宣言でもそれは確認出来る。

https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

渡部の「人権」私見は理性的には確認出来ない。

同じ2001年に渡部は、松下幸之助が創設したPHP研究所から出版した著作で、「不平等主義」を主張し始めた。

たとえば藤原紀香や松嶋奈々子は、「美しい」という理由によって何億円もの収入を稼いでいる。普通の女性、あるいは美しくない女性が、「こんな不平等なことがあっていいのか」と抗議したところで、これは仕方がない。もし「日本の女性をみんな平等にせよ」と唱えたとしても、日本の女性をすべて美女にすることは不可能である。しかし、日本の女性をすべて不美人にすることは、じつは簡単である。「女の子が生まれたら、三日以内に鼻に焼きゴテを当てるべし」という法律をつくればよいのである。これで日本中の女性はみんな平等に不美人になる。みんな美人にはできないが、みんな不美人にすることはできる。極端な例ではあるが、平等主義とはこういうものである。(中略)「平等」とは「一番悪いほうに合わせる」以外には実現し得ない。そのことを日本人ははっきりと認識すべきである。ほんとうに貧しい人に対しては当然、社会政策として最低限の救いがあってよい。ただし、その最低限は「飢えず、凍えず、雨露に当たらず、痛みをなくする程度の医療」であって、それ以上の面倒を国家が見る必要はない。「そこで諦める人はそのまま人生を送って下さい。しばらく羽を休めてから立ち上がって仕事に入る人はそれもよろしい」とするのが望ましい姿であろう。それ以上を与えれば、与えられた人間は必ず堕落する。本来平等ではあり得ないものを平等にしようというのは土台無茶な話なのである(渡部昇一『不平等主義のすすめ―二十世紀の呪縛を超えて―』PHP研究所、2001年、pp.45~47)。

渡部の「不平等主義」の基礎付けは、理性的に考えた場合、客観的ではなく主観的なものと評価出来る。

事実の場合、渡部は客観と主観を識別して無い可能性があり得る。

①事実に反し、②扇動的宣伝でもある場合、渡部の主張は、一種の「デマ(デマゴギー)」と評価出来る(『広辞苑(第6版)』)。

事実の場合、渡部は一種の「デマゴーグ」と評価出来る。

「デマゴーグ」とは、「扇動政治家」、「民衆扇動家」を意味する(『広辞苑(第6版)』)。

事実の場合、パナソニック系のPHP研究所は、「デマゴーグ」と提携し、「デマ」を情報市場に流し、新自由主義を推進していたことになる。それは「大衆」操作の一つでもある。

上智大学の職員によれば、文学部英文学科の事務室には、よく渡部への「苦情」の電話がかかって来た。

上智大学は「デマゴーグ」の大学教師に「名誉」を授与したことになる。

緒方貞子の「国際主義」(1999年)との比較

渡部が「不平等主義」を主張する2年前の1999年、国連難民高等弁務官だった緒方は、ワシントンのマンスフィールド太平洋問題研究所が主催した、「日本、アメリカと私―世界の課題と責任―」という講演の中で、次のような「国際主義」を主張した。

今日の国際主義は、世界中の多様な発展と文化的価値を積極的に認め合うことを基本としなければなりません。こうしたアプローチには、互いに補完し合う二つの側面が必要です。すなわち、対外的には発展途上国に向っていかなくてはなりません。そして、国内的には、社会の最も弱い者たち、特にマイノリティや移民や難民に向かわなくてはなりません。豊かで安全で、民主主義的価値観にのっとった、包括的国際社会の実現に向かわなくてはならないのです緒方貞子「日本、アメリカと私―世界の課題と責任―」、東野真[取材+構成]『緒方貞子―難民支援の現場から―』集英社新書、2003年、p.213

①新自由主義へのスタンスの差異。

②「弱い者=マイノリティ」へのスタンスの差異。

後史

2015年、渡部はPHP研究所から『朝日新聞と私の40年戦争』を出版した。

また、渡部は「朝日新聞を糺す国民会議」を設立し、議長に就任した。

「糺す」とは、「正しくする」、「改め直す」を意味する。

同国民会議は、朝日新聞を相手に集団訴訟を起こしたが、敗訴した。

現在では同国民会議のメンバーも、かなり減少しているようである。

(「国民」とは誰か。「自己」を中心に構成された「国民」か。「自己」中心主義の一種か)。

2015年、国連は「持続可能な開発目標(SDGs)」を採択した。

2017年、渡部は死去した。

2018年、SDGsの認知向上の為、国連は「SDGメディア・コンパクト」の発足を発表した。

日本のメディアでは朝日新聞等が創設メンバーとして参加した。

その後、フジテレビジョンBSフジTBSHD、 NHKエンタープライズJ-wave朝日新聞出版BS朝日等も同コンパクトに参加した。

2020年4月時点では、NHK自体はまだ参加していなかったが、2020年12月に参加した。

https://www.nhk.or.jp/info/otherpress/pdf/2020/20210127.pdf

2020年10月、朝日新聞は朝日地球会議を開催した。特別協賛の一つは、パナソニックだった。後援は、外務省、文科省、農水省、経産省、国交省、環境省だった。

https://www.asahi.com/eco/awf/

<参考資料>

SDGメディア・コンパクト一覧

https://www.un.org/sustainabledevelopment/sdg-media-compact-about/

おわりに代えて

(法)規範は歴史的に変化する。過去の世界に適応していても、時間の経過に伴い、現実とのズレが発生する場合もある。

現実の変化に応答しないと、ズレは大きくなる。

場合によれば、修正も難しくなる。特に一度習慣化して身体化したものの修正が難しい。

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