はじめに
冷戦終結以降、筆者は新しい日本の「進歩」あるいは「発展」について考え続けて来ました。その場合、規範研究と実証研究の双方を重視しました。新しい規範を設定する場合も、「現実」は無視出来ません。
筆者が日本の「現実」の卓越した分析と評価するのは、政治学者の丸山眞男の弟子である松下圭一と堀尾輝久の「大衆国家=福祉国家」論です。2018年、筆者は堀尾の1971年の「大衆国家=福祉国家」論の今日的妥当性を検討し、アクチュアリティをまだ失っていないことを確認しました(金子聡「堀尾輝久「大衆国家=福祉国家」論におけるメリトクラシーの問題―その今日的妥当性に関する考察―」、『季論21』第40号、本の泉社、2018年春号)。
ここでは日本の「現実」の一つの仮説を提示します。
日本の公式の社会秩序の構成原理
日本の公式な社会秩序の構成原理は、血統原理とメリトクラシー(能力原理)だと思います。血統原理は、日本の公式な国民統合原理である象徴天皇制と関係します。血統原理とメリトクラシーは対立する側面がある為、その二つの原理は軋み合います。
しかし、この二つの原理は理念上の原理で、「現実」の原理はもっと複雑だと思います。
メリトクラシーの問題
メリトクラシーは先進国では正統な原理と評価されています。リベラル派のジョン・ロールズの正義論やアマルティア・センのケイパビリティ・アプローチでもそうです。また、「人種=肌の色」ではなく「人格」で人間が評価される社会を理想視した、マーチン・ルーサー・キングの発想も、そうかも知れません。
しかし、もし血統原理を廃止しメリトクラシーに一元化しても問題は無くならず、新たな問題を生み出すと思います。
1962=1971年に堀尾は既にこの問題を論じていました。問題は四点あります。
①教育機会の量的拡大は、社会的上昇の機会の拡大を殆どもたらさないこと。
②高等教育機会の供給過剰によりエリート職に就けなくなること。
③中間層の「プロレタリア」化。
④所属階級や地方社会からの“climb out”による疎外の拡大。
以下、“climb out”の事例を示します。
http://www.satoshi-kaneko.com/justice/769/
教育機会のl量的拡大による「中産階級」化あるいは「中間(階)層」化としての「差別」や「貧困」からの「解放」構想は、失敗に終わる可能性が大きいことを意味しています。
もし「階級」や「階層」あるいは「地域」の分解を促進したとしても、「被差別者vs.被差別者」の対立を強めることも考えられます。ここで言う「被差別者」は、「マージナル・マン」と言い換えることも出来るかも知れません。
教育機会の量的拡大では、「被差別者」は「差別」から「解放」されない可能性があると思います。そこでは「人間性=humanity=思いやり・慈悲」が崩壊し冷酷な社会が出現するかも知れません。
「格差社会」の「格差」縮小がもたらすもの
2000年頃から日本でも「格差社会」論が流行し始めました。その中には「格差社会」の乗り越え方を論じたものもあります。その多くは「格差」を縮小させようとする議論です。
しかし、その議論には二つの疑問があります。
①教育機会の量的拡大等により「格差」は本当に縮小出来るのか。
②もし「格差」が縮小出来たとしても、その結果何が起こるのか。
②については日本は既に経験している可能性があります。「大衆国家」と呼ばれる体制でのメリトクラシーの相対的な実現は、新たな問題を招き、人々を「差別」から「解放」しないかも知れません。そこで起こる「現実」は、「被差別者」同士の対立や憎み合いの激化と共存や共生の困難性や不可能性かも知れません。
おわりに
日本の「現実」の一つの仮説を提示しました。
“climb out”は、地方社会から大都市への移動を、大学界という特定の場で捉えたものに過ぎません。場が異なれば、異なる現れ方もあり得るかも知れません。また、大都市に移動して“climb out”した人々と地方社会に止まる人々は区別して考える必要もあるかも知れません。その場合、「階級社会」論や「階層社会」論のように、一つのカテゴリーから一元的に「構造」を捉えるより、多元的に捉える必要があるとも思います。
規範論的にも、コアとなる「格差」以外の不平等を多元的に捉える必要があるのではないかとも思います。その場合もコアとなる「格差」をどう定義するのかという問題があります。
しかし、規範論の展開は今後の課題とします。