はじめに
冷戦期の1962=1971年、博士論文で戦後教育学のリーダー堀尾輝久は、「現代国家=大衆国家=福祉国家」のメリトクラシーの問題を、「国民の教育権」と「教育における正義の原則」(一種の社会主義)でブレイクスルーしようとしました。
日本の教育学界の冷戦対立は、「戦後教育学vs.教育社会学」という形で現れたとも評価できます。
戦後の教育社会学のリーダーの一人は、清水義弘です。1917年に清水は佐賀県三養基郡鳥栖町大字鳥栖782-1で生まれました。その後、東京大学教育学部教授、上智大学文学部教育学科教授等を歴任しました。
ここでは清水の世界を、彼の自伝である『われはしつつか。なにわざを。―教育社会学と私―』(東信堂、1987年)を手掛かりに、そのエッセンスを紹介します。
東京帝国大学文学部社会学科卒業後
さて、卒業後である。新聞社には口がなかったので、ある人に勧められて東亜研究所の試験を受け、十六年四月五日から嘱託研究員として勤めることになった。この研究所は、近衛文麿を初代総裁とし、昭和十三年九月に開設された企画院所掌の国策研究機関だった。(中略)柱の日めくりを一枚ずつ剥ぎ取って入営の日を待つ、やるせない日がつづいた。やがて、翌十七年二月七日、私は現役兵として入営し、中国戦線へ向かった(同上書、pp.15~16)。
失職し大学院に進学ー「デクラッセ」?ー
研究所は、(昭和二十一年――引用者による注)三月二十六日に正式に解散した。私は復職どころか、失職していたのである。私は「浦島太郎」だった。両親はすすめたが、私は田舎で暮らすのが嫌だったから、あちこち心当たりを尋ねた。もちろん、就職口があるわけはなかった。そこで、窮余の一策として、大学院に在籍することを考えた。旧制の大学院は、今とは違って単位履修の義務がなく、就職待機の溜り場だった。大先輩の清水幾太郎氏も、かつてはこれを利用したと聞いていた(同上書、p.20)。
東京大学教育学部(助)教授時代
最もシリアスな問題は、卒業論文と修士論文の審査の際、評定をめぐって学科内で毎年対立したことである。海後教授はもちろん中立的だったが、勝田教授、特にある助教授にいたってはそうではなかった。彼は、「進歩的」で「民主的」で「観念的」な論文が好きなようで、「人間を尊重する教育」といった題目には目が無かった。読んでみると、その論文は大抵の場合傾向的な新聞や雑誌からの引用だった。彼はこれを「問題意識が鋭い」と言って、いつも高得点を出した(同上書、p.69)。
教育系大学院での教育社会学の「必置分野」化
ここで特記しておきたいのは、教育社会学は、五十四年一月から教員養成大学(学部)に設置される大学院において、「必置分野」の一つになったことである。具体的にいうと、学校教育専攻の「必置分野」は、教育学(教育史を含む)、教育心理学、発達心理学、学校経営、教育社会学、教育内容・方法、道徳教育である。
さて、これにも裏話がある。五十三年秋の審査内規の改正に当たって、私は教育社会学を「必置分野」にすることを提案した。しかし、私を除く十八人の委員は、黙りこくっていた。なかでも教育学関係者は渋い顔をしていた。そこで、私は立ち上がって、提案理由を語気を強めて説明した。そして、終わって着席したら、私の左手はアルミの灰皿を強く握りしめていた。(中略)以来、新設の教育系大学院には教育社会学を必ず設けることになり、教育社会学のマーケットは全国的に広がった(同上書、pp.121~122)。
上智大学文学部教育学科への再就職
まず、よく聞かれるのは、どうして上智大学を選んだのかということである。これについては、就任の前々年に誘いを受けた時、いささか我がままな申し出だったが、「一切雑用はないこと」を取り付けたのである。管理能力はともかく、六十歳すぎてまでヒト、モノ、カネで苦労したくなかったし、それは東大で仕残したことが片付けられなくなる、という私の考えだった。なお、ほかに理由をあげると、私の長女が文学部心理学科に学んだこと、それに通勤時間が短いことだったろう。これを聞いてガッカリする学生もいた(同上書、p.128)。
イエズス会士の高祖敏明教育学科助教授との関係
次に、授業の工夫である。これは多分に学科の高祖敏明助教授に啓発されてである。(中略)さて、第二学年が受講する教育社会学の講義である。(中略)まず、人数が多いのに驚いた。さらに驚いたのは、まん延する私語と喧騒である。(中略)この“公務執行妨害”はなんとも忌ま忌ましかった。聞いてみると、ほかの大学もそうだという。(中略)新入生とは、中学、高校の悪習を大学へ持ち込むインベーダーなのである。それでも十年間どうにか講義をつづけてきたのは、「見ざる、聞かざる」を会得したからだろうか。まさに、教師受難の時代である(同上書、p.130)。
上智大学時代の清水義弘の弟子ー夏秋英房(上智大学1982年卒)の回想ー
「キミは横浜出身だったね」
何度目かお話しを伺いにいったときに、そう言われた。驚きつつ、「ええ、そうですが」とお答えすると、先生はニヤッと笑われて、「学生と交流しようと思うと、まずその学生のプロフィールを頭に入れるんだよ」(後略)(夏秋英房「いくつかのお言葉から」、清水義弘追悼集慣行委員会編『清水義弘、その仕事』東信堂、2007年、p.186)