はじめに
岡野八代は政治学者です。ハンナ・アレントの政治思想をフェミニズムの観点から研究しています。岡野は、1967年、三重県松坂市生まれ、早稲田大学政経学部出身です。岡野は出身地の松坂市を次のように回想しています。
わたしは、三重県の松阪市で生まれ育ちました。松阪牛で有名なわたしの故郷は、大学進学を機に離れてみてようやく、歴史的に作られた複雑な差別構造をもった市なのだと気づきました。それ以来、差別やアイデンティティの問題に関心をもち、歴史的・理論的にこれらの問題を考えるために、哲学ではなく、政治思想を専門に選びました。内向的な思索ではなく、世界とのかかわりの中で、差別やアイデンティティの問題を考えたかったからです(http://global-studies.doshisha.ac.jp/teacher/teacher/okano.html)。
ここでは岡野の世界のエッセンスを、河野貴美代『わたしを生きる知恵―80歳のフェミニストカウンセラーからあなたへ―』(三一書房、2018年)での対談から紹介します。なお敬称は省略します。
私はディマンディングではない
私は、人にはあまりディマンディングではないです。むしろ、私がやってあげたいというタイプ。(中略)私は与えるタイプの人で、それで自己満足しています。欠乏感というのはあまりない。もちろん求めるものはありますが、「私を認めて」みたいなものはないですね(同上書、pp.16~17)。
母は女の子に「勉強しなさい」と言った
私の母は、電電公社(現NTT)の電話交換手をしていました。当時、貧しい家の子が中卒で就職できる中で一番いい就職先の一つでする。だから頭のいい人だったんだと思う。でも家が貧しくて、祖父は病気がち。クリーニング店を営んでいたのですが、中学まで母をやるのが精一杯でした。昭和一一年生まれ、中卒の人が多かった時代です。特に女性は。
私の母も、私には「手に職をつけろ」と言っていました。兄にはぜんぜん言わなかったのですが。「女は経済的に自立しないといけない」というのが母の持論。というのも、父は活動家で、のちに市会議員をやったりもしていたのですが、経済的には不安定でした。だから母が経済的に支えていました。家も母が建てたし、経済観念にすぐれていた。なので、私には「勉強しなさい」と言っていたけれど、兄には言わなかった。男はほっといても仕事に就くだろうと思っていたのかも知れません(同上書、pp.17~18)。
荒れていた中学校
私の中学時代はちょうど「三年B組金八先生」の時代。中学校、本当に荒れていたんです。小学校のときわりと仲のよかった男の子はみんな「不良」になっちゃった。私も反抗期で。でも、自分は中学・高校ぐらいのときから、とにかくここを出ないといけないと思っていました。「不良」になって反抗しているけど、その子たちは中学を出たらヤクザ的な世界の上下関係の非常に厳しいところに入るんです。私は、反抗するのだったら、もっと違う世界ででかい相手に対してしたいと考えていました。だから、学校では態度が悪かったのですが、家では勉強していましたね。母も、私に「外に行ったほうがいい。医者か弁護士になれ」と言っていましたね(同上書、p.19)。
母との対立
母と大きな対立があったのは、大学四年生のとき。八〇年代後半は、女性の就職が非常によかったんです。私にもたくさんの企業からの資料が来ました。でも、私はリクルートスーツを着るのが絶対嫌だった。スカートをはかない子だったので、これは大学院に行かないといけないかなと、わりと早くから思っていました。それに対し母は、今まで勉強しろと言っていたのに、「私は最高学府に四年間もやったのに、まだ勉強するというのはいかがなものか」と。だから二〇代は、母とずっとケンカしていました。「働け」と言われて。
もう一つは、母は、子どもを産むというのが女性にとって一番の幸せだと思っている人なので、「子どもを産め」と、二〇代はずっと言われていました。そのときは、「こんなひどい世の中なのに、子どもを産んだらその子が可哀想だから、子どもを産む気なんか一切ありません」と言って、ずっと口論ばかりしていました(同上書、p.20)。
母に言えないこと
母との間での葛藤はもう一つあります。それは、自分は女性に惹かれるということを母に言えないということ。わりと早い時期から性的な目覚めはありました。中学ぐらいからずっと好きな子がいて、わりといい関係だったのですが、それを母に見られたことがあって、一週間口をきいてくれなかった……。それで、母に言わないでおこうと決めました。
大学に入ってから一年間、じつはある女性と一緒に暮らしていました。でも結局うまくいかなくて、一人暮らしに戻ったときに電話して、住所が変わりましたといったら、「ああ、病気が治ってよかったね」と言われて。またそれもショックでした。これについては、いまだに続いています。私の一番大事な人を母に認めてほしいというのはあるじゃないですか。それが、うちはダメなんです(同上書、p.21)。
フェミニズムとの出会い
私がフェミニズムに出会うのは、政治思想史の教科書の中でです。私は政経学部だったのですが、早稲田大学では四年間、一人として女性の教員に教室で会いませんでした。その頃、学部には一人も専任の女性教員がいなかったのです。自分を生きる中ではフェミニズムと出会わなかったけれど、教科書の中には出てきて、当時、ゼミの先生がアメリカの政治思想史の最先端のことを紹介してくれる先生だったので、そこで学びました。だけど先生は、フェミニスト嫌いだったんですよ。ゼミも、女性は一人しかとらないと決めていたらしい。哲学ゆ政治思想は男性の世界です。それで、私ら「岡野さん、この学生はどう?」なんて、結婚させようとしていて(笑)。そういう世界でした(同上書、p.27)。
フェミニストなんかいらないと思っていた
私は、学部時代はフェミニストなんかいらないと思っていました。当時私が専門的に勉強していたのはハンナ・アーレントですけれど、じつは彼女もフェミニスト嫌いで当時有名だったのです。(中略)卒業後、カナダのトロント大学に留学します。驚いたことに、その頃の北米のアーレント研究者はみんなフェミニストだったのです。(中略)私は、自分のことを遅れたフェミニトだとずっと思っていました。(中略)日本のフェミニズム運動にはまったく肌で触れていないです(同上書、pp.27~28)。
レズビアンであることの生きづらさ
早稲田大学時代の話に戻りますが、現代政治思想史の教科書には、ゲイやレズビアンについても出てきます。そのフェミニスト嫌いな先生は、その議論を読んでもなお、「男と女は自然に対になると決まっている」と言うんです。そのときの友人たちの多くには、私はまだレズビアンだということを言っていませんでした。帰りの電車の中で、心臓が踊って、本当に服が震えるくらい、その先生の発言に怒っていました。そのとき、この人のもとで勉強するのは無理だと思いました(同上書、pp.28~29)。
小括
岡野は初め「私は、人にはあまりディマンディングではない」と自己評価しました。しかし、その後、レズビアンである自分の承認を求める自己言及が現れました。そうすると全体的に見れば、自分がレズビアンであるということを、親密圏である家族(特に母親)や指導教官(藤原保信)に承認して欲しいという岡野のデマンドが確認出来ると思います。
差異の承認を相手に求めない、しかし本当は求めているという自己矛盾が率直に語られていると思います。