はじめに
丸山眞男と勝田守一の弟子である堀尾輝久は、戦後教育学のリーダーです。「逆コース」の中の1962=1971年の博士論文で堀尾は、現代国家を「大衆国家=福祉国家」と把握し、そのメリトクラシーの問題を、欧米の先進資本資本主義諸国を参照しつつ、日本国憲法と旧教育基本法の理念を展開することで克服しようと試みました。
後期中等教育がユニバーサル化し、学校化社会が進展した1970年代以降、堀尾はエリート「冷酷化」論を展開しました。
「冷酷」とは、①思いやりがないこと(思いやり=想像、思慮、自分の身に比べて人の身について思うこと)、②酷いこと(残酷であること、無慈悲であること)、③無慈悲(慈悲=仏や菩薩が衆生を憐れみ、慈しむ心)を意味します(新村出編『広辞苑 第六版』岩波書店、2008年)。
現在でも堀尾のエリート「冷酷化」論は、ある程度アクチュアリティがあると思います。
ここではそのエッセンスを紹介します。なお敬称は省略します。
1962=1971年の場合
理想的社会にあっては、機会均等原則は、公正の原則を現実的に補完し、実効あらしめるための補完的原則と考えることができよう。そしてこれが、現状維持のための人材の引き抜きと階層移動(体制内部の流動化)による不満の緩和剤的機能を第一義的におわされている機会均等原則とは、基本的に異なっていることは明らかだろう(堀尾輝久『現代教育の思想と構造―国民の教育権と教育の自由の確立のために―』岩波書店、1971年、p.257)。
1974年の場合
1974年、堀尾も専門調査委員を務めた日教組教育制度検討委員会(委員長は梅根悟)は、「能力主義(メリトクラシー)」が「人間性」が破壊された冷酷なエリートを形成していると次のように指摘しました。
能力主義こそは、今日の教育荒廃の元凶、教育諸悪の根源というべきである。一方で、この体制のもとでは、いわゆるハイ・タレントの「すぐれた能力」そのものをも、いびつなものに転化し、知的エリートの人間性破壊が同時に進行していることが指摘されなければならない。あまたの友人をおしのけて、登竜門を通過することに成功したエリートたちが、いかにゆたかな感情を欠き、官僚的で偏狭で非合理な冷たさを露呈するのかは、その実例に乏しくない(教育制度検討委員会+梅根悟編『日本の教育改革を求めて』勁草書房、1974年、pp.82~83)。
1976=2005年の場合
テストと序列づけの教育が、すべての子ども・青年の可能性を開花させるという教育とは逆方向をめざすものであり、多くの落ちこぼれを出し、学校が人間的協力の場ではなく、競争とけ落としの場になっていること、そこでのばされる能力の質もまた、けっしてそれが人間的ゆたかさの開花につながらず、内面の貧しい、冷酷で攻撃的な人格となる場合が多い(堀尾輝久『教育を拓く―教育改革の二つの系譜―』青木書店、2005年、p.145。初出は「『能力主義』教育の問題性」、『教育法』第22号、総合労働研究所、1976年)。
1978年の場合
学校が競争と選別の機能を効率的に果たすことが求められるほどに、落ちこぼされた無気力な青年と、ライバルをけ落として動じない冷酷なエリートが生み出されている(下線は引用者による)(堀尾輝久「教育における平等と個性化―価値意識の変革に向けて―」、『教育』第28巻第12号、国土社、1978年11月、p.88)。
1989年の場合
友人を蹴落としてすすむ競争体制のなかで、他人の喜びや悩みに共感する能力、あるいはやさしさや思いやりに欠けた人格になっている場合が多いのです。できない子だけが不幸になるのではなく、できる子もまた不幸な状況になっているのです(堀尾輝久『教育入門』岩波新書、1989年、p.88)。
いわゆるエリートの卵たちの育ち方もまた、大きな歪みをもっているように私には思えます。これは、東大生をみても、幼児期に始まる受験レースの勝者として、やはり残念ながら冷酷で傲慢なパーソナリティの持主が増えていると言っても言い過ぎではないのではないかと思います(同上書、p.190)。
東大生の「冷酷化」の根拠の一つは、堀尾が教育学を履修しようとする東大の一年生に書かせた作文です。堀尾は東大生には落ちこぼれた人間に対して侮蔑感を持つ「受験競争の犠牲者」が少なくないと指摘した上で、次のような学生の作文を引用しました。
今の小学生の生活をみていると、10年先20年先の日本は、革命を起こすことにしか興味のないプロレタリアートと称する駄民が多数蔓延するようなものではないだろうか、と危惧される(同上書、p.194)。
堀尾は「駄民」に侮蔑感を持つ冷酷な東大生が、「そのまま大学を卒業して社会に出たらどういう人間になるだろうかと、そら恐ろしくなります」とコメントしました(同上書、p.194)。
1997年の場合
学校化社会と能力主義――競争と選別の体制のもとで、できる子も、落ちこぼされた子も、傷つき、悩んでいるのである。それは、人間としての誇りを傷つけ、その他人を見る眼差しを冷たくし、人間を見る目をくもらせ、人と人とのつながりを切り裂いていく(堀尾輝久『現代社会と教育』岩波新書、1997年、p.108)。
おわりに
堀尾のエリート「冷酷化」論は語られているだけで十分に実証されていません。印象論の域に止まります。しかし、全人的でも、理性中心(至上)主義ですらない、日本の学校に見られる受験知に要約される「能力」主義の問題性は指摘されていると思います。
また、こうした能力主義による疎外作用は、他の先進資本主義諸国でも指摘されています。例えば、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズも次のように指摘しています。
メリトクラシー社会は、また大量な下方流動性も持っているだろう。他者が上昇移動するには、多くの者は下降移動しなければならない。しかし、多くの調査が示すように、広範な下方流動性は社会的な転位を招来し、これらの影響を受けた人々の間には疎外感が醸成される。大規模な下降移動は、排除された不満階級を生み出し、社会的結合を脅かすだろう。事実、完全なメリトクラシー社会は、これらの階級の極端な例や不可触階級を作り出すだろう(Anthony Giddens,The Third Way:The Renewal of Social Democracy, Polity,1998、p.102)。
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