平等を求める傾向と嫉妬の区別

はじめに

平等を求める傾向は、よく嫉妬だと評価されます。しかし、平等を求める傾向の全てを嫉妬に解消するのは難しいと思います。逆に、嫉妬の全てを平等を求める傾向に解消するのも難しいと思います。では平等を求める傾向と嫉妬はどう区別するべきでしょうか。敬称は省略します。

ユネスコ憲章(1945年)に見る平等を求める傾向

ここに終わりを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代わりに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによつて可能にされた戦争であつた(http://www.mext.go.jp/unesco/009/001.htm)。

ユネスコ憲章は第二次世界大戦を平等の尊重という民主主義の原理の否認によって可能にされた戦争であると認識したことが確認出来ます。

世界人権宣言(1948年)に見る平等を求める傾向

人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎を構成する(https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

『現代世界憲章』(1965年)に見るカトリックの平等を求める傾向

1960年代前半、カトリック教会は第二バチカン公会議で「アジョルナメント」を目指し、『現代世界憲章』で世界平和の実現を自らの使命としました。

平和の建設をするためには、なによりもまず人々の不一致の原因、とりわけ戦争の温床となる不正を取り除かなければならない。それらの原因の多くは、過度の経済的な不平等と必要な対策の遅延にもとづく。その他の原因は支配欲と人にたいする軽べつから生じるものであり、さらに深い原因を探せば、それはねたみ、不信、高慢、その他の我欲にもとづいている。人間はこれほどの秩序の乱れに耐えられないので、たとえ戦争に痛めつけられなくとも、世の中は絶えず人々の間の争いと暴力によって悩まされることになるのである(長江恵訳『第二バチカン公会議 現代世界憲章』中央出版社、1967年、p.139)。

バチカンは非平和の諸原因を、嫉み等の主観世界だけではなく客観世界における過度の経済的な不平等、支配、軽べつ等にも求めたことが確認出来ます。

ネオ・リベラリズムの台頭

1970年代、先進資本主義諸国は経済成長が行き詰まり、福祉国家を見直し始めました。1970年代末にイギリスではサッチャリズムが現れ、1980年代にはアメリカでレーガンの新保守主義が現れました。

日本でも中曽根康弘政権がネオ・リベラリズムを推進し、公共的部門を民営化しました。また、公教育には「教育の自由化」を適用し、ある意味で公教育の私立学校化を推進しました。

2000年代、小泉純一郎政権もネオ・リベラリズムを推進し、郵便局も民営化しました。

しかし、公共放送であるNHKは存続しています。

ジョン・ロールズ『正義論 改訂版』(1999年)の場合

保守的な論者たちの多くは、近代の社会運動に見られる<平等を求める傾向>を嫉みの発現に過ぎないと主張してきた。このような仕方で彼らは、平等を求める傾向を集団に害を及ぼす衝動に帰することによって、この傾向を信頼できないものにしようと努めている。しかしながら、この命題を真剣に受け入れられるためには、まず保守派が異議を唱えている平等の形態が不正であり、結局のところあまり恵まれていない人びとを含む暮らし向きをいっそう劣悪にする、と論証しなければならない(ジョン・ロールズ[川本隆史+福間聡+神島裕子訳]『正義論 改訂版』紀伊国屋書店、2010年、pp.705~706)。

ロールズは、平等を求める傾向は、次の二点が論証される場合、嫉妬ではないと考えました。

①保守派が異議を唱えている平等の形態が不正であること。

②その主張が結局のところあまり恵まれていない人びとを含む暮らし向きをいっそう劣悪にすること。

まず「不正」とは何かを定義する必要があります。

また、二点を論証するには理性が必要になると思います。余り理性的でない人にとっては不利な区分法かも知れません。

日本のカトリックに見る不平等を求める傾向

日本のカトリックの英文学者の渡部昇一は、2001年に『不平等主義のすすめ—二十世紀の呪縛を超えて—』という著作をPHP研究所から出版しました。PHP研究所は、1946年に松下電器産業(現在のパナソニック)の創業者の松下幸之助が創設した出版社です。1983年、松下は「世界を考える京都座会」を創設しましたが、渡部もその基本委員にも選ばれました。その上で渡部は同書で次のような不平等主義を提唱しました。

たとえば藤原紀香や松嶋奈々子は、「美しい」という理由によって何億円もの収入を稼いでいる。普通の女性、あるいは美しくない女性が、「こんな不平等なことがあっていいのか」と抗議したところで、これは仕方がない。もし「日本の女性をみんな平等にせよ」と唱えたとしても、日本の女性をすべて美女にすることは不可能である。しかし、日本の女性をすべて不美人にすることは、じつは簡単である。「女の子が生まれたら、三日以内に鼻に焼きゴテを当てるべし」という法律をつくればよいのである。これで日本中の女性はみんな平等に不美人になる。みんな美人にはできないが、みんな不美人にすることはできる。極端な例ではあるが、平等主義とはこういうものである。(中略)そこを鋭く突いたのがサッチャー首相で「金持ちをなくしても貧乏人は豊かにならない」と言った。これがイギリス人の心に響いたわけだが、日本ではまだそうした考え方が出来ていない。繰り返し強調するが、「平等」とは、「一番悪いほうに合わせる」以外には実現し得ない。そのことを日本人ははっきりと認識すべきである。ほんとうに貧しい人に対しては当然、社会政策として最低限の救いがあってよい。ただし、その最低限は「飢えず、凍えず、雨露に当たらず、痛みをなくする程度の医療」であって、それ以上の面倒を国家が見る必要はない。「そこで諦める人はそのまま人生を送って下さい。しばらく羽を休めてから立ち上がって仕事に入る人はそれもよろしい」とするのが望ましい姿であろう。それ以上を与えれば、与えられた人間は必ず堕落する。本来平等ではあり得ないものを平等にしようというのは土台無茶な話なのである(渡部昇一『不平等主義のすすめ—二十世紀の呪縛を超えて—』PHP研究所、2001年、pp.45~47)。

渡部はサッチャリズム的な不平等主義を日本に導入しようとしていたことが確認出来ます。

はじめに 人間の評価基準は様々です。血統、財産、所得、能力、才能、業績、学歴や学校歴、職業、年齢、地位、性別、人種、民族、ナショナリティ、...
自民党の憲法改正草案(2014年)に見る不平等を求める傾向

2014年に自民党は憲法改正草案を発表しました。しかし、堀尾輝久も指摘しているように、同草案では次の現在の憲法第97条「基本的人権の本質」が全文削除されています(堀尾輝久「安倍政権の教育政策ーその全体像と私たちの課題ー」、『法と民主主義』第488号、日本民主法律家協会、2014年5月)。

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

おわりに

ロールズは前述の二点により平等を求める傾向と嫉妬を区別しようとしました。ユネスコ憲章や世界人権宣言に見られる平等を求める傾向を理論的に基礎付けようとしたと評価出来るかも知れません。

しかし、ネオ・リベラリズムには両者を区別する理論は無いかも知れません。少なくとも日本でサッチャリズムを導入しようとした渡部の不平等主義には理論と呼べるものは無いと思います。しかし、日本では1980年代以降、ネオ・リベラリズムによる社会・教育改革が推進されています。現在の自民党は、憲法から人権を「削除(?)」しようとしています。

学校でも道徳教育が教科化されました。愛国心も教えられています。また、高校に導入される予定の「公共」でも、既に「基本的人権の保障」や「平和主義」も削除されました。

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/293696.html

そうすると客観世界の不正や不正義の問題は、主観世界の「心」の問題(例えば、「嫉妬」等)にすり替えられ、社会変革より「『心』の教育(例えば、「嫉妬」の除去等)=洗脳」が重視されることになる可能性があります。これは「心の病気」への積極的罹患とも評価することが出来るかも知れません。一部の日本のカトリック系学校では随分以前からこのような「洗脳」が精神的自由を無視し人格を破壊する形でかなり暴力的に行われていたと思います。

日本国民は注意した方が良いかも知れません。

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