はじめに
戦後日本は日本国憲法で崇高な理想を掲げました。その理想は現代でも通用するものかも知れません。
しかし、その後、米ソ冷戦が始まりました。1948年、国連は世界人権宣言を採択し、普遍としての「自由、平等、友愛(連帯)」という近代市民革命の理念を再結晶化しました。しかし、東西で人権観は分裂しました。
その分裂は、戦後日本の普遍の継承と展開にも影響を与えたました。また、普遍としての人権の「受肉」も困難にしました。
1989年、米ソ冷戦が終結し、1993年、国連は人権の普遍性を再確認しました。その後、普遍の徹底化を目指して来た左翼勢力は、世界的に退潮しました。それは「進歩(progress)」観の衰退でもありました。
冷戦末期の1980年代から日本でも、「ネオリベラリズム=市場原理主義」が台頭しました。その後、「保守」が支配的になり、現在に至っています。「進歩」はもう死語の一つかも知れません。しかし、もしそうだとしても「発展(development)」は延命しています。
では日本の「発展」をどう考えるべきでしょうか。ここでは戦後日本の一つの「進歩主義」の行方を辿りつつ、「発展」の可能性を模索します。なお敬称は省略します。
戦後日本の一つの「進歩主義」
戦後日本の民主主義の推進者は、クエーカー新渡戸稲造と人間関係があった人達でした。新渡戸と内村鑑三の弟子の南原繁や南原の弟子の丸山眞男や丸山の弟子の松下圭一等です。
戦後民主主義教育の推進者は、勝田守一や丸山と勝田の弟子の堀尾輝久等でした。冷戦期の「逆コース」の文脈の中で、堀尾は憲法や教育基本法の理念を継承、展開しようとしました。彼等によるこの展開は、戦後日本の一つの「進歩主義」を示しています。
1962=1971年の博士論文では、堀尾は近代市民革命の理念を継承、展開する為に、国家権力からの、真理のエージェントとしての「教師の教育の自由」を核とする「国民の教育権」と「教育における正義の原則」(一種の社会主義)を提示しました。堀尾は松下に倣って現代国家を「大衆国家=福祉国家」と認識し、同国家のメリトクラシー(能力原理)の限界をブレイクスルーしようと試みました。それは「差別」から国民(特に「労働者階級」)を解放しようとする試みでした。
一つの「進歩主義」の後退
1970年代に入ると、後期中等教育がユニバーサル化しました。イヴァン・イリッチ的に言えば、社会の「学校化」が進みました。その頃から堀尾はエリートの「冷酷」化論を展開しました。「冷酷」化は、ある意味で非「人間」化でした。遅くとも1978年に堀尾は一つの「進歩主義」を後退させ、体制内での価値意識の変革を重視し、フランスのランジュバン・ワロン・プランを再評価しました(堀尾輝久「教育における平等と個性化—価値意識の変革に向けて—」、『教育』第28巻第12号、国土社、1978年11月)。
翌1979=1991年、堀尾は先進資本主義諸国の体制内改革の動向を俯瞰し、「文化剥奪」論を前提にした1960年代以降のアメリカの補償教育政策の失敗、同政策のブレーンのJ.S.ブルーナーによる差異の承認の重要性への気付きを踏まえつつ、「教育制度改革構想」を重視しました(堀尾輝久『人間形成と教育―発達教育学への道―』岩波書店、1991年の第10章。初出は、岩波講座『子どもの発達と教育』第2巻、岩波書店、1979年の第2章)。
1980年代に入ると中曽根康弘政権が日本でもネオリベラリズムを推進し、電電公社、国鉄、専売公社を民営化し、国鉄の労働組合員を国鉄清算事業団に移動しリストラしました。また、同政権は臨時教育審議会を設置し、「教育の自由化」も推進しました。それは市場原理の公教育への適用、国公立学校の私立学校化を意味しました。それは公教育を市場経済を基礎にした資本主義体制の中に再定位しようとするものでした。実際、その後、国公立大学は独立行政法人化され、独立採算制が目指されました。
これに対し堀尾は「教育の自由化」を「教育の商品化」、「公教育の解体」と捉えた上で批判し、「人権としての教育の公共性」を対置しました(堀尾輝久「教育の自由と公共性―『自由化』論批判を中心に―」、『季刊 教育法』第57号、エイデル研究所、1985年7月。同『現代社会と教育』岩波新書、1997年の第4章)。
(堀尾は「教育」を厳密に定義していない可能性もありますが、普遍としての「教育への権利」の「教育」と定義すれば、市場原理の公教育への適用が真に「商品化=非『教育』化=似非『教育』化」になるか実証出来る可能性もあります。もし実証出来れば、多くの国民は、商品化された非「教育」や似非「教育」を「教育」と誤解していることになります。もし事実でまた真理にアクセス出来なければ、自分の誤解にずっと気付かないことになります)。
ソ連が崩壊した1991年、大学設置基準が大綱化され、一般教育は廃止され、「教養」や「人間性(humanity=人道、人文、思いやり等)」も「自由化=規制緩和」されました。
現在でも、公教育のダウンサイジングは続いています。文科省は、経営不振で教育の質が低い私立大学をリストラすることに決めました。
https://www.asahi.com/articles/ASL1N347KL1NUTIL003.html
一つの「進歩主義」から「差異を貫く普遍」へ
1966年、国連は法的拘束力を持つ国際人権規約を採択しました。その後、1979年に女性差別撤廃条約、1989年に子どもの権利条約も採択しました。冷戦後の1993年、国連は人権の普遍性を再確認しました。
1976年、国際人権規約は発効し、1979年、日本も批准しました。
1974年、堀尾も専門調査委員を務めた日教組の教育制度検討委員会報告書も、人権の学習を重視しました。
世界人権宣言や国際人権諸規約、日本国憲法などを積極的に学習させる必要がある。今日、特別に力点がおかれなければならないのは、たんに政治の方面にとどまらず、広く一般にみられ、時には無意識のうちにも人びとの心に宿るあらゆる差別の現実と意識をなくす教育である。差別し、競争させ、支配するというやり方は、日本社会のすみずみにまで浸透しており、学校もその例外ではない。学校は生徒を差別し、差別意識を助長する場ではなく、協力と連帯をつくりあげる場である(教育制度検討委員会+梅根悟編『日本の教育改革を求めて』勁草書房、1974年、p.443)。
「国際人権諸規約=国際人権規約」にもキャッチアップし、人権の学習に取り入れようとしていたことが確認出来ます。
こうした日本政府(特に外務省)の国際人権条約へのコミットの文脈の中で、堀尾は体制改革より体制内改革を重視するようになったと評価出来るかも知れません。。
1997年、堀尾は「差異を越える普遍」とともに「差異(特殊、個別)を貫く普遍」を重視し始めました。「差異を貫く普遍」は差異の相互承認を通じた人間共通の苦しみのシェアを意味します。それは権利論的には子どもの権利等の差異の権利でもあります。
その上で堀尾は自由化された「教養(culture=文化)」を再定義しようとしました。
民衆が知をもち、そしてそれを力とすること(民衆の力=デモクラシー)ができるかどうかが民主主義の成否をきめる。それは民衆の教養(文化)の質の問題にもかかわる。それは単に認識の世界を広げるという問題ではなく、感性のレヴェルでの人の痛みや悲しみを共有するというコンパッションを含んで教養というものをとらえなおすことが求められている。教養は「人と人をつなぐもの」といわれるが、それは個別の認識を通してつなぐ(con-science)だけでなく、まさに個別のものをいつくしむ感性を通して、あるいは人間的なふれあいを通して、苦しみを共有する(con-passion)ということを含んでの教養の問題が問い直されているのではないだろうか(堀尾、前掲『現代社会と教育』、p.24)。
おわりに
一つの「進歩主義」は、国際社会で人権レジームが形成、展開された冷戦後、「差異を貫く普遍」に到達しました。これは新しい「進歩主義」かも知れません。
日本の「発展」は様々な立場から考えることが出来ます。「発展」は普遍と差異の視点から考えることが出来ます。その視点から見ると、日本の「発展」の可能性は、三つあります。
①普遍を重視する(普遍主義、コスモポリタニズム、[第二バチカン公会議で世界人権宣言にコミットし、二つの普遍をミックスして統一感を持たせた]バチカン、国連等)。
②普遍と差異のバランスを重視する(リベラリズム、「第三の道」等)。
③差異を重視する(保守主義、伝統主義、フェミニズム等の差異主義、[既存の社会秩序に順応した]日本のカトリック?等)。
堀尾の「差異を貫く普遍」は、①あるいは②の可能性を追求するものと評価出来ます。
③に近い②あるいは②に近い③の可能性を追求するものと評価出来るのは、服部英二の「地球倫理」論の核にある「通底」論です。しかし、筆者は「通底」論には多くの課題があると評価しています。
更にブラッシュアップし、完成度を高める必要があると思います。
いずれにせよ筆者は堀尾と服部の思想は、日本の「発展」の有力な可能性を示していると思います。