はじめに
2013年3月、ユネスコ事務局長顧問等を歴任した比較文明学者の服部英二は、イタリアで開催された世界ユネスコクラブ連盟の会議で、「地球倫理とユネスコ」という基調講演を行いました。2013年10月、服部は『未来を創る地球倫理―いのちの輝き・こころの世紀へ―』(モラロジー研究所)を出版し、「普遍」から「通底」への転換を提唱しました。
2018年6月、筆者は総合人間学会の第13回研究大会で、「普遍と差異の対立を超越する“well-being”の模索―エーリッヒ・フロムの人間思想を手掛かりにして―」という報告を行いました。
http://synthetic-anthropology.org/
そこで筆者は「普遍」を「通底」に転換しようとする服部の「通底」論を批判しました。ここではその妥当性を再検討します。なお敬称は省略します。
筆者による服部英二「通底」論批判
2013年に文化的多様性に関する世界宣言を踏まえながらも、ユネスコ事務局長顧問等を歴任した服部英二は、上下関係を含みつつ一点に向かい「差別」を生み(出すーー引用者による補足)とする普遍(universal)を自己変容のリスクを含みつつ相互尊重する通底(transversal.互敬)へ転換させ、普遍と差異の二項対立を超越する為に第三項、「間」、「包中律」の可能性を模索した。
これは服部が非常に尊敬している鶴見和子や彼女が「地球志向の比較学」と高く評価した南方熊楠の発想様式と認識出来る。しかし、これは文化的多様性に関する世界宣言とは違う立場である。同宣言は普遍としての人権を重視し普遍を通底に転換しない。ユネスコが考える「文化的多様性」は普遍としての人権と両立可能な多様性であり、人権を抑圧する文化的差異ではない。そうすると通底はユネスコではなく、服部個人の発想や思想や思索だと評価出来る。服部は理性や普遍を否定はしないが、相対化したりズラそうとする。恐らくこの点は、感性や触れ合いも重視するが基本的には理性を重視すると考えられる堀尾の「差異を貫く普遍」とも違う(学会報告のレジュメ)。
また、もし服部が想定するような通底が成立しない場合、普遍と差異の対立は超越出来ず、差異も普遍も抑圧される世界を招来するリスクもある。現実の世界を見れば、このリスクは容易に想像出来る。しかし、少なくとも2013年段階では服部はこのリスクへの対応策を考えていない。そうすると通底は普遍としての人権の代替案とは評価出来ない。日本の「大東亜共栄圏」はその一つの前例である可能性がある。実際、服部は京都学派を評価する。また、服部(にーー引用者による補足)は通底を実現可能にする社会構想も無い。そうすると実現可能性が無い夢想やユートピア思想になる可能性もある。その場合、別の発想が必要になる(同上書)。
批判のポイントは三つあります。
①ユネスコは「普遍」としての人権を重視し、服部のように「普遍」を「通底」に転換しないこと。
②「通底」が成立しない場合のリスクへの対応策の不在。
③「通底」を実現する社会構想の不在。
ここでは①の妥当性を中心に再検討します。
服部英二の「普遍」批判
ラテン語の「uno」「uni」は、「一つ」という意味を持っています。「verso」とは「そこに向かうこと」です。つまりユニバーサル(普遍)とは、「一つのところに向かっていく」ということです。例えば、カトリックという言葉は、それ自体が普遍的ということを指しますので、カトリック教会は「公教会」と訳されます。こういうとき、ユニバーサルには上下関係を含みます(同上書、pp.64~65)。
ですから、いかにバチカンがほかの宗教と対話しようと、所詮は上下関係が前提にされているのです。(中略)ユニバーサルとは「自分の価値」は微動だにしませんが、トランスバーサルのほうは自らが変わるリスクを負う。ここが違うのです(同上書、p.65)。
ユニバーサルという観念は、啓蒙時代に推進された観念ですが、あくまでも理性のみに立脚していました。理性・感性・霊性という人間の能力のうち、感性と霊性を低く見て、理性だけを非常に重要視したのが、一八世紀のヨーロッパに出現した啓蒙主義と言われるものです(同上書、p.66)。
理性偏重、これが現在の日本の知育偏重の教育にも残っています。しかし理性偏重を作り出した「普遍」は、差別の原理になりました。いわゆる啓蒙主義というもの自体が、差別の原理にほかならないのです(同上書、p.67)。
以上から服部が言う「普遍」とは、カトリックや18世紀以降の啓蒙主義であることが確認出来ます。
服部英二の「通底」論
そこでわれわれはそういった普遍ではいけないということを示すために、トランスバーサル(通底)という言葉を使うのです。ロジェ・カイヨワというフランス人の文人、ユネスコ文化部長を務めたこともある私の先輩は、トランスバーサルという言葉を使っています(同上書、p.68)。
通底するとは「異なったものが異なったままにお互いを尊重しながら、根柢で響き合うものをもつ」ということです。通底とは響き合いなのです。将来の世界は、そこに行き着かなければなりません(同上書、pp.68~69)。
自分の存在には、他者の存在が必要です。それは寛容の対象ではなく「おかげさまで」なのです。他者がいてくれるおかげで、自己があるのです(同上書、p.72)。
以上から服部が言う「通底」とは、相互依存的な差異の相互尊重であることが確認出来ます。
服部英二の「通底」論と人権との関係
新しく浮上してきた「通底(transversal)」という考え方は、普遍とは逆に、すべての文化を対等に尊重する立場をとります。それは個人を扱うにあたって、一人ひとりの人間が、人種的・社会的・経済的・性的・年齢的な差異こそあれ、人間の尊厳において等しいとする、基本的人権の理念にも呼応するものです(同上書、p.188)。
それは反理性主義ではありません。新しい理性主義です。近代において軽視されてきた感性・霊性と響き合う理性、人間の全人性の恢復を目指すものであります。このアプローチによってこそ、異なる文化を生きる人々との間に「互敬」の関係が生まれるでしょう(同上書、p.188)。
以上から服部は、「通底」を基本的人権の理念と呼応するものと考えていることが確認出来ます。
考察
服部の「普遍」批判は、カトリック、18世紀以降のヨーロッパ啓蒙主義批判です。しかし、カトリックと18世紀以降のヨーロッパ啓蒙主義との関係は考察されていません。
世界人権宣言は、自由と平等という「普遍」の主体としての「人間」を、「理性、良心、友愛の精神を持つ存在」として捉えています。
服部の「人間」観は、「理性、感性、霊性を持つ存在」です。世界人権宣言に見られる良心と友愛の精神がありません。それが感性と霊性に入れ替わってます。しかし、理由は述べられていません。そうするとこれは服部の個人的な「人間」観だと考えられます。
また、ユネスコは人権を抑圧する文化的差異を「文化的多様性」として認めていません。
服部は「通底」を「基本的人権の理念にも呼応するもの」と評価します。また、「通底」を「すべての文化を対等に尊重する」ものと考えます。しかし、服部は人権を抑圧する文化的差異を文化的多様性と評価出来るのか、あるいはそれを対等に尊重しても良いのかという人権と文化を巡る問題を避けています。「他者がいてくれるおかげで、自己があるのです」という時、恐らく服部は自己の人権を抑圧する他者や他者の差別する被差別者等のような存在を想定していません。つまり服部にとってそのような存在は、想定外、対象外でしょう。
服部はユネスコの「文化的多様性に関する世界宣言」にコミットしていると思います。しかし、ユネスコと服部は立場が違います。
そうすると「ユネスコは普遍としての人権を重視し、服部のように普遍を通底に転換しない」という筆者の服部の「通底」論批判には、依然一定の妥当性があることを確認することが出来ます。まだ賞味期限は過ぎていないと言えるでしょう。