はじめに
現代世界の正義の基礎は、人権です。人権の促進は「日本国民の使命」かも知れません。
しかし、日本国民はまだ人権を、「受肉(インカルチュレーション)」していない可能性もあります。恐らく人権を「受肉」するには、理性と共に社会感情も必要です。社会感情とは近代市民革命の理念の一つだった友愛です。ここでは友愛をエーリッヒ・フロムが考える愛として展開して、人権を「受肉」する可能性を模索します。
世界人権宣言の「人間」観ー友愛を持つ存在ー
世界人権宣言第1条では人権の主体としての「人間」とは次のようなものとされました。
A ll human beings are born free and equal in dignity and rights. They are endowed with reason and conscience and should act towards one another in a spirit of brotherhood.
http://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html
世界人権宣言が想定する「人間」とは、「理性、良心、友愛の精神を持つ個人」です。
フランス革命の理念ー駆動力としての友愛ー
友愛の源流は、フランス革命の理念である「自由、平等、友愛(brotherhood=博愛、連帯)」に求めることが出来ると思います。
社会哲学者の鵜飼哲によれば、自由と平等が権利の概念であるのに対し、友愛は「道徳上の義務と一体となった社会感情」です(鵜飼哲「博愛」、『岩波哲学・思想事典』岩波書店、1998年)。
友愛はフランス人権宣言では消失しましたが、1871年の憲法で復活しました。
鵜飼によれば、「博愛(友愛)」はフランス革命の駆動力でした。
19世紀の歴史家ではミシュレが<博愛>をフランス革命の核心に位置づけた。また、フーリエなど初期社会主義者も個人主義的、契約論的社会観を超越する原理を<博愛>に求めた。事実、革命期の<博愛>は、権利上の<平等>の確立から事実上の不平等の解消へと向かう運動の駆動力であったとする説が有力である(同上書の同項)。
ナチスのホロコーストによる友愛の破壊
近代市民革命の理念である友愛は、ホロコーストで完全に破壊されました。
ナチスは1929年世界恐慌後、急速に勢力を伸張しました。軍と産業界の支持も得て、1932年に国会の第1党となり、1933年にナチス政権が成立しました。その後、内では諸政党を禁圧して一党独裁体制を確立し、再軍備を急ぎ、外ではベルサイユ体制打破の政策を強行しました。また、ナチスはユダヤ人を強制収容所に移送し虐殺しました(ホロコースト)。
エーリッヒ・フロムの愛の思想
20世紀を代表する愛の思想家には、フロイト左派に属すユダヤ系の社会心理学者のエーリッヒ・フロムがいます。1900年にフロムはドイツのフランクフルトで、正統派ユダヤ教徒の家系に生まれました。第一次世界大戦に敗北したドイツの当地で、フランツ・ローゼンツヴァイクが創設した自由ユダヤ学院で、フロムはユダヤ教の革新運動にコミットメントしました。
ローゼンツヴァイクは、ヘーゲル研究者として出発し、世界大戦中に突然ユダヤ教に回帰し、1921年に『救済の星』を出版した、20世紀を代表するユダヤ哲学者です。当時の自由ユダヤ学院には、ユダヤ神秘主義を学問の対象にしたゲルショム・ショーレム、東欧で始まったハシディズム運動の影響を受け、対話と愛の哲学を独自に展開し、「20世紀の預言者」とも言われるマルティン・ブーバー、ジークフリート・クラカウアー等もいました。
ショーレムの系譜に属すエルンスト・ブロッホやヴェルター・ベンヤミンも、ユダヤ神秘主義とマルクス主義を対話させ、独自な思想を展開しました。
恐らくフロムの愛の思想も、学院にいた彼等、特にブーバーの影響を強く受けています。近代の啓蒙主義をユダヤ神秘主義へズラそうとした彼等の思想は、現在でも世界的に注目されています。恐らく彼等が啓蒙不可能(困難)な「他者」、普遍と差異の対立、啓蒙の限界等の問題群を扱っている為でしょう。
https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/906#mokuji
1932年にフロムはフランクフルトの社会研究所のメンバーになりましたが、1933年にナチス政権が成立するとアメリカに亡命しました。
1941年、フロムは『自由からの逃走』で、民主主義的なワイマール体制の内側からナチズムが台頭した原因を社会心理学的に分析しました。フロムはナチズムの台頭の原因を、近代以来の消極的自由が生み出す孤独や無力感からの逃避として捉えて、「積極的自由」を対置しました。
フロムが考える「積極的自由」の核は愛でした。
憎悪は破壊を求める激しい欲望であり、愛(love)はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求である。すなわち愛は「好むこと」ではなくて、その対象の幸福、成長(growth)、自由を目指す積極的な追求であり、内的なつながりである。それは原則として、われわれをも含めたすべての人間やすべての事物に向けられるように準備されている(エーリッヒ・フロム[日高六郎訳]『自由からの逃走』東京創元社、1993年、p.131。初版は1951年)。
自発的な活動は、人間が自我の統一を犠牲にすることなしに、孤独と恐怖を克服する一つの道である。というのは、ひとは自我の自発的な実現において、かれ自身を新しく外界に―人間、自然、自分自身に―結びつけるから。愛はこのような自発性を構成するもっとも大切なものである。しかしその愛とは、自我を相手のうちに解消するものでもなく、相手を所有してしまうことでもなく、相手を自発的に肯定し、個人的自我の確保のうえに立って、個人を他者と結びつけるような愛である。愛のダイナミックな性質はまさにこの両極性のうちにある。すなわち愛は分離を克服しようとする要求から生まれ、合一を導き―しかも個性は排除されないのである(同上書、p.287)。
フロムの愛は、対象の幸福、成長(growth)、自由を目指す積極的な追求で、内的なつながりです。愛は自他の一体化ではなく、個性を排除しないダイナミックな自他のつながりです。
フロムによれば、愛は原則的に「われわれをも含めたすべての人間やすべての事物に向けられるように準備されている」。そうするとフロムの愛は普遍的愛だと考えられます。
フロムの普遍的愛には、三つの次元があると考えられます。
①人間愛、人類愛。
②バイオフィリア(生命愛)。*反対語はネクロフィリア(死への愛)。
③世界愛、宇宙愛。
「積極的自由」の危険性―自由の本質とは何か―
鵜飼によれば、フランス革命の友愛(博愛)は、排除の原理に転化しました。
<博愛>は当初はもっぱら結合の原理だったが次第に排除の原理としての傾向を強めた。反革命派の貴族が<博愛>の輪から除かれるとともにそれは自然な感情の発露ではなくなり、「博愛化(fraternisation)」の制度的強制が始まり、この動きは最終的にジャコバン派の独裁と恐怖政治に行き着いた(鵜飼、前掲『岩波哲学・思想事典』)。
1969=1979年の『自由論』で政治学者のアイザイア・バーリンは、「積極的自由」に向かわない消極的自由を擁護しました。
私が述べている自由は、行動それ自体というよりは行動のための機会である。開いたドアーを通って歩く権利をもってはいるが、もしそうせずに坐ってじっとしていたいと思うなら、じっとしていたとしても、私がそれだけ自由でなくなるということはない。(中略)もし、より活発で伸びやかな生活に到るさまざまな道に対して無気力に束ねていること―これが他のどんな理由で非難されようとも―これが、自由であるという観念と両立しなくもない、とさえみてくれるのなら、この二人の著者(フロムとバーナード・クリックー引用者による注)の定式について私は何ら争おうと思わない(アイザィア・バーリン[小川晃一+小池銈銈+福田歓一+生松敬三訳]『自由論』みすず書房、1979年、p.63)。
バーナード・クリックは、「第三の道」を目指したイギリスの労働党が推進したシティズンシップ教育のブレーンだった「英国政治学界の重鎮」です(バーナード・クリック[添谷育志+金田耕一訳]『デモクラシー』岩波書店、2004年、p.211)。
バーリンの自由論の影響を受け、人権も支持しているのは、マイケル・イグナティエフがいます(エイミー・ガットマン編[添谷育志+金田耕一訳]『人権の政治学』風行社、2006年、pp.106~107)。イグナティエフは、『アイザイア・バーリンーa lifeー』(石塚雅彦+藤田雄二訳、みすず書房、2004年)というバーリン論も書いています。
1998年、法哲学者の井上達夫は「積極的自由」の危険性を指摘しました。
積極的自由は民主主義の基礎とされるが、集団的自治の名の下に個人の自由を否定し人民主権を絶対化する危険性も秘めている。積極的自由にはさらに国家万能主義や全体主義にさえ傾斜する側面もある(井上達夫「自由主義」、同上書)。
恐らく自由の本質とは何かという問題は、東西冷戦期にも人権観の対立という形態で顕在化していました。事実の場合、その問題は究極的には体制選択の問題になる可能性があります。事実の場合、愛の問題を体制選択の問題にしないで、人権の「受肉」の可能性を模索することが重要な課題になる可能性があります。
おわりに
日本国民が人権を「受肉」する可能性の一つは、市民革命の理念である友愛をフロム的な普遍的愛へ展開し、人権の基底に位置付けることにあると思います。また、フロムの普遍的愛は、現代日本の精神革命を推進し、“to have”の教育を“to be”の教育に転換する上でも重要であると思います。
しかし、「積極的自由」批判は傾聴に値すると思います。自由の本質とは何かという問題は、現代世界の問題でもある為です。井上が指摘したように、「積極的自由」は全体主義等を招来する危険性があると思います。それはある特定の生き方を強制する社会です。しかし、フロムの「積極的自由」は、個性を排除せず、自発性を重視するものです。そうするとフロムを直接批判するバーリンは兎も角、井上の批判はフロムには妥当しない可能性があります。しかし、バーリンや井上の批判の妥当性の検討は、今後の課題にします。
フランス革命から教訓を得ようとすれば、自然的感情の発露としての普遍的愛を制度化しないことだと思います。実際、フロムの普遍的愛も、強制された愛ではなく、あくまで自発性に基づく愛です。
そうすると日本国民が人権を「受肉」する可能性は、その基底にフロムの普遍的愛を制度化させない形で位置付けることにあるかも知れません。
しかし、現時点ではこれは一つの仮説です。そこから仮説の丁寧な論証や実証が必要になります。