人権と啓蒙

はじめに

1948年、国連は国連憲章で重視した人権の具体的なリストを世界人権宣言として採択しました。同宣言では、「普遍」の主体としての「人間(human beings)」は、、「理性(reason)」と「良心(conscience)」と「友愛の精神(a spirit of brotherhood)」を持つ存在とされました。「教育( education)」は、理性と良心(あるいは美的感覚)を持つ「人格の全的発展( the full development of the human personality )」と人権や基本的自由のリスペクトを強化するものとされ、「初等教育」は義務制とされました。

人権は18世紀以降の理性を重視する啓蒙主義の文脈に位置付けることが出来るものです。社会哲学者の三島憲一大阪大学名誉教授の「啓蒙」(『岩波社会思想事典』岩波書店、2008年)が非常に参考になるので、内容をシェアし、日本の課題について少し考えます。

「啓蒙」とは何か

18世紀の代表的な啓蒙主義者であるカントは、1784年の『啓蒙とは何か』で「啓蒙」を次のように定義しました。

「啓蒙とは自ら招いた未成年状態からの脱出である。(中略)敢えて賢くあれ」。

カントの啓蒙主義の特徴

三島教授は、カントの啓蒙主義の特徴を三点挙げます。

①理性への信頼。理性的反省による宗教からの離脱。

②現実の非理性的な支配への批判。教会による国民の思考停止化、身分制社会を前提にした教会の支配と国家の支配の癒着への批判。

③理性を使用しない人々への批判的な要求。

③は特に重要です。現実の一人一人は、自分が属す団体、組織、国家等の利害の為に理性を私的使用していますが、それでは未成年状態を脱することは出来ません。重要なことは、利的使用ではなく、広く読者公衆の前で議論をするという「理性の公的使用」です。人々は「理性の公的使用」によって未成年状態を脱することが出来ます。

例えば、もしイエズス会系上智大学にいる日本人のイエズス会士が理性を私的使用し、公的使用しなければ、そのイエズス会士は学歴が高くても、未成年状態から脱することが出来ていないと評価出来ます。つまり子どもに止まります。

「理性の公的使用」には、言論の自由の保障が必要になります。アメリカの独立やフランス革命は、啓蒙の成果でした。

カントの啓蒙主義の思想史的な意義と限界

三島教授は、カントの思想史上の重要な意義を二点挙げます。

①「人類」という概念の発見。普遍主義と万人への自由権の承認。

②「人間の自己完成」という思想の発生。キリスト教の教義ではなく、古代ギリシアをモデルとした文化的豊かさ、芸術と教養による自己完成思想へと展開されました。

しかし、カントは公共の議論や政治への参加は制限しました。

①女性の排除。

②一定の社会的地位(財産)を持たない者の排除。

しかし、カント的な啓蒙主義の普遍主義は、自己の限界を反省し、200年かけて普通選挙権の拡大、女性参政権等、権利の主体の範囲を拡大させました。この「人類」への拡大も、啓蒙主義の成果でした。

啓蒙主義への批判

①理性による個別性の抹消(ヘルダー)。

②啓蒙の理想は、ブルジョワジーに奉仕する(マルクス)。

19世紀末、ニーチェは、市民社会の現実は啓蒙的理性=力の支配であり、教養はヨーロッパ中心主義に基づく道徳的・文化的歪みに過ぎないと暴露しました。

そして、20世紀に二つの世界大戦と大衆民主主義は、次の三点を人々に意識させました。

①啓蒙の成果である科学が大規模な殺戮を可能にしたこと。

②普遍主義的道徳は、その根拠の薄弱さを露呈し、普遍的殺人へ逆転したこと。

③芸術、文化、教養の大衆娯楽への堕落。

啓蒙の自己反省と課題

それを受けて、1947年にホルクハイマーとアドルノは『啓蒙の弁証法』で、啓蒙の自己反省の必要性を説きました。

第二次世界大戦後、「資本主義vs.社会主義」かの体制選択を巡って米ソ冷戦が始まりました。三島教授は西側社会を、「世界史上稀に見る社会的統合とある程度の公正な富の再分配を可能にし、啓蒙と批判の伝統に自ら忠実であろうとしてきた」と評価しました(同上書、p.67)。しかし、限界もありました。

①「第三世界」を含めて「人類」を考えた来たとは言えないこと。例えば、世界政治への参加権の不平等。

②西側世界内部でも「平等による社会統合=啓蒙以来のプログラム」自体が、グローバリゼーションの中で行き詰まっていること。

これに地球環境問題も付け加えることが出来るでしょう。

その上で、三島教授は、次のように知的・政治的課題を示します。

「このプログラムを放棄して、力と力の対決に向かうのではない、啓蒙の新たな修正と発展が現在の知的・政治的課題である」(同上書、p.67)。

おわりにー日本の啓蒙の課題ー

冷戦後の1993年、国連は世界人権会議で人権の普遍性を再確認しました。日本でも国内版冷戦構造だった55年体制が終焉しました。当時、日本では「ポスト・モダン」が流行していました。しかし、その流行が過ぎ去ると、カントをモデルにしたジョン・ロールズの正義論以降の規範理論の展開が注目されました。

現在、改めて理性の公的使用や公共的な議論が問題になっています。ある意味でカントへの回帰とも評価出来ます。しかし、現在でも「普遍vs.差異」の対立図式は克服されたとは言えないと思います。

また、戦後日本は連合軍によって人権と民主主義を与えられた側面があり、その「土着」や「受肉」は現在も課題であり続けていると思います。つまり近代化の不十分さの問題です。そうすると日本には二つの課題があると思います。

①啓蒙の「土着」と「受肉」。

②啓蒙の新たな修正と発展。

現段階で啓蒙の批判を先行させると、理性それ自体が日本国民に根付かない可能性もあります。そうすると日本はこの二つの課題に同時に取り組む必要があります。恐らくここに日本の困難さもあります。しかし、経済成長する発展途上国も同様の課題に直面することが考えられます。そうすると日本がこの課題に真摯に対峙することは、一国に止まらず、世界的な意義を持つ可能性があります。国民的課題だと言えます。

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