はじめに
1946年に日本国憲法は公布され、1947年に施行されました。憲法では日本史上初めて基本的人権が保障されました。その大きな理由は、1945年8月に日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏したことにあります。ここではポツダム宣言の内容を基本的人権との関係から確認します。
ポツダム宣言の成立と日本の受諾までの経緯
第二次世界大戦中、連合国軍は人権保障を戦争目的に日独伊等の枢軸国(タイも含みます)と闘いました。1941年1月6日、アメリカのF.ルーズベルト大統領は一般教書の中で「四つの自由」を民主主義の原則として表明しました。
①表現の自由。
②信仰の自由。
③欠乏からの自由。
④恐怖からの自由。
1941年8月 14日、F.ルーズベルトとイギリスのW.チャーチルは、第二次世界大戦後の世界平和を回復する基本原則として大西洋憲章を発表しました。それは1942年1月1月の連合国軍共同宣言にも取り入れられました。
1945年6月のサンフランシスコ会議で国連憲章が採択されました。1945年7月にドイツのポツダムで、アメリカのトルーマンとイギリスのチャーチルとソ連のスターリンの各首脳がドイツ処理問題と日本の降伏と戦後処理について会談しました。同月、会談に参加しなかった中国も同意し、ソ連を除く英米中の三国宣言としてポツダム宣言を発表し、無条件降伏の要求のリストを日本政府に提示しました。
1945年8月14日に日本政府は同宣言を受諾し、翌15日無条件降伏(無条件敗北)しました。
ポツダム宣言の内容ー基本的人権との関係ー
ポツダム宣言の内容の中で、人権との関係で重要なのは次の四点だと思います。
①「我儘ナル軍国主義的助言者」が依然「日本国」を「統御」すべきか、または「日本国」が「理性ノ経路」を踏むべきか、「日本国」が「決意スヘキ時期」は到来したこと。
無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ。
②無責任な「軍国主義」の世界からの駆逐まで、「平和」、「安全」、「正義」の「新秩序」は生成されないので、世界征服の挙に出た者の「権力」と「勢力」は「永久」に除去されなければならないこと。
吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス。
③日本政府は国民間の「民主主義的傾向」を「復活強化」に対する「一切ノ障礙」を除去し、「基本的人権」の尊重は確立されるべきこと。
日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ。
④ポツダム宣言の要求以外の「日本国」の「選択」は、「迅速且完全ナル壊滅」あるのみであること。
吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス。
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html
ポツダム宣言では、「言論、宗教及思想ノ自由」と「基本的人権」が重視されました。「言論、宗教及思想ノ自由」は、ルーズベルトの「四つの自由」に重なります。しかし、「基本的人権」はまだ内容が明確にされていませんでした。
また、「民主主義的傾向」の「復活強化」も重視されました。これは恐らく大正デモクラシー等を意味すると考えられます。
おわりに
日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦に敗北することで、戦前の「民主主義的的傾向」を「復活強化」し、「基本的人権」の尊重を確立することになりました。この「基本的人権」は、ルーズベルトの「四つの自由」や国連憲章を展開したものだと考えられます。しかし、1945年段階では「基本的人権」は一般的なものに止まりました。国連も1948年に世界人権宣言で人権のリストを具体的に示しました。日本国憲法の公布は1946年ですので、世界人権宣言より先行していました。そういう意味では憲法の基本的人権規定は世界史的に見ても画期的だった可能性はあります。