はじめに
戦前の日本では「人権」は十分に保障されていませんでした。大日本帝国憲法で保障されていたのは、天皇大権と両立する「臣民の権利」でした。日本では人権は、ポツダム宣言を契機に「降臨(advent)」したと見ることも出来ます。しかし、戦後の日本でもなかなか人権は定着しませんでした。現在も人権は「土着」、「受肉」していない可能性もあります。
もしそうだとすると、現在の日本でも、ポツダム宣言が日本政府に無条件で要求した「平和」、「安全」、「正義」の「新秩序」が生成されず、「民主主義的傾向」の「復活強化」に対する「障礙」も除去されず、基本的人権の尊重も確立されていない可能性もあります。逆に第4次安倍政権による憲法改正の動向の中で、それは弱体化されていることも考えられます。そうすると歴史を反省的に振り返りつつ、連合国軍も失敗した可能性もある日本の「民主化」の問題を探究する必要があります。今回はその問題に「人権とメリトクラシー」の角度からアプローチし、教育に焦点を当てつつ、一つの大きな仮説を提示したいと思います。丁寧な実証は今後の課題であることを予め断っておきます。
第二次世界大戦と人権とポツダム宣言
第二次世界大戦中、連合国軍は人権保障を戦争目的に日独伊等の枢軸国(タイも含みます)と闘いました。初めそれはルーズベルト大統領の「四つの自由」として登場し、米英による大西洋憲章へと展開されました。1945年6月のサンフランシスコ会議で同憲章は国連憲章へ展開され、日本に対してはポツダム宣言へと展開されました。
1945年7月にドイツのポツダムで、アメリカのトルーマンとイギリスのチャーチルとソ連のスターリンの各首脳がドイツ処理問題と日本の降伏と戦後処理について会談しました。同月、会談に参加しなかった中国も同意し、ソ連を除く英米中の三国宣言としてポツダム宣言を発表し、無条件降伏の要求のリストを日本政府に提示しました。人権との関係で重要なのは、次の四点だと思います。
①「我儘ナル軍国主義的助言者」が依然「日本国」を「統御」すべきか、または「日本国」が「理性ノ経路」を踏むべきか、「日本国」が「決意スヘキ時期」は到来したこと。
無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ。
②無責任な「軍国主義」の世界からの駆逐まで、「平和」、「安全」、「正義」の「新秩序」は生成されないので、世界征服の挙に出た者の「権力」と「勢力」は「永久」に除去されなければならないこと。
吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス。
③日本政府は国民間の「民主主義的傾向」を「復活強化」に対する「一切ノ障礙」を除去し、「基本的人権」の尊重は確立されるべきこと。
日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
④ポツダム宣言の要求以外の「日本国」の「選択」は、「迅速且完全ナル壊滅」あるのみであること。
吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス。
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html
戦前の「民主主義的傾向」の一つの頂点は、大正デモクラシーです。そのリーダーは、民本主義を提唱した吉野作造東大教授・東京朝日新聞論説委員、『中央公論』、『東京朝日新聞』、『大阪朝日新聞』等でした。
マルクス主義を貧困問題に適用した河上肇京大教授の記事を連載した、『大阪朝日新聞』の記者には、丸山幹治と長谷川如是閑等もいました。幹治の次男の眞男は、子ども時代から長谷川と交流し、東大法学部時代には戦後教育改革をリードした政治学者の南原繁に師事し、戦後民主主義をリーダーとなりました。
1945年8月14日に日本政府は同宣言を受諾し、翌15日無条件降伏(無条件敗北)しました。
日本と人権とメリトクラシー
第二次世界大戦後、日本は基本的人権を保障する日本国憲法を公布、施行しました。憲法では血統原理による象徴天皇制が公式の国民統合原理とされました。また、憲法施行により戦前の貴族制度とも言える華族制度は廃止されました。華族制度は、血統原理とメリトクラシーのミックスでした。恐らく後藤新平は、血統よりも“merit”によって伯爵の爵位を授与された人物だと思います。
戦後、天皇制が象徴天皇制としてサバイバル出来たのは、連合国軍がその廃止により日本が内乱状態に陥り、日本の戦後処理をスムーズに出来なくなるというハイレベルな判断があったと思います。そうすると象徴天皇制は、無条件降伏を境界線とする戦前から戦後の体制移行の暫定的措置だった可能性もあると思います。
他方で、メリトクラシー(能力原理)が公正な教育機会均等原理と結合され、「教育憲法」と呼ばれた旧教育基本法では能力以外の教育差別禁止原理として積極的に展開されました。しかし、メリトクラシーは公正な職業機会均等原理まで貫徹されず、空間上の移動の自由とともに、「公共の福祉」に反しない限りという条件付きで、消極的に職業選択の自由が認められました。
一面ではメリトクラシーは「差別からの解放原理」でしたが、憲法では象徴天皇制という血統原理により国民は統合される対象とされました。このようにして戦後の日本では、憲法上では「解放原理」としてのメリトクラシーは、血統原理に統合されました。
国連と人権とメリトクラシー
人権保障は連合国軍の戦争目的でした。しかし、戦後、間もなく「資本主義vs.社会主義」という体制選択を巡る争いとしての米ソ冷戦がスタートしました。1948年、国連は国連憲章で示した人権を具体的に示す為に世界人権宣言を採択しましたが、人権の理解や評価は左右や「保守」の間で分裂していました。
世界人権宣言第26条では、「教育」は「人格」の「全的発展」と人権と「基本的自由」へのリスペクトの強化と規定されました。そして初等・基礎教育は「啓蒙」の強制と位置付けられ、メリトクラシーは高等教育機会均等原理のみ適用されました。
日本では冷戦構造は、55年体制として現れました。
日本と戦後教育学と堀尾輝久東大名誉教授
丸山眞男と教育学者の勝田守一の弟子に、戦後教育学のリーダー堀尾輝久東大名誉教授がいます。1962=1971年、堀尾教授は、1963年の経済審議会答申「経済発展における人的能力開発の課題と対策」が徹底化を目指した「能力主義」(メリトクラシー=能力原理)を、子どもの可能性を実現する諸条件の不平等を正当化する「差別原理」としてラディカルに批判しました。そして堀尾教授は、「国民の教育権」と「教育における正義の原則」によって、当時、彼が「階級」に収斂すると考えた社会経済的不平等を除去しようとしました。
また、国民の教育権は家永三郎教科書裁判を巡る杉本判決により裁判所でも認められ、単なる教育思想に止まらず、法的地位も獲得していきました(「法廷の教育学」の登場)。
堀尾教授の戦後教育学は、丸山の戦後民主主義の教育学的展開と評価することも出来るかも知れません。
冷戦末期の日本とメリトクラシー
1971年、資本主義体制のリーダーのアメリカでは、リベラル派の政治哲学者ジョン・ロールズが『正義論』を提示し、メリトクラシーと結合した公正な機会均等原理を「格差原理」で調整しようとしました。但し、その後、ロールズ自身は、自らの正義論を「福祉国家」論と区別しました。
日本では、1970年代に入ると後期中等教育がユニバーサル化しました。しかし、1973年にオイルショックがあり、高度経済成長を前提にした福祉国家の再生産や発展が困難に直面しました。1970年代末以降、イギリスやアメリカ、そして日本では、小さな政府を目指すネオ・リベラリズム政策が展開されました。
1982年に日本では自民党の中曽根康弘政権が成立し、ネオ・リベラリズム政策を展開し、第二次臨時行政調査会の路線に基づいて、行政改革、税制改革、教育改革が進められました。公社は民営化され、「教育の自由化」を推進しました。「教育の自由化」は、公私区分の境界線を移動させ、国公立学校を「私立学校化=民営化」するものだったと思います。この公私区分の境界線の移動は、政治的には自民党と対立した左翼政党の支持基盤の解体を目指すものだったと言われています。
堀尾教授は、「教育の自由化」を「公教育の解体」と評価して批判し、人権としての「教育の公共性」を対置しました。それに対し教育行政学者の黒崎勲は、ロールズの正義論を日本の文脈でのメリトクラシーへの批判に適用するとともに、「教育の公共性」を再定義し、「平等」から「選択の自由」へ転換させようとしました。
その頃、教育界では東大医学部問題が注目され、偏差値という形で矮小化されたメリトクラシーが、「人格」の「全的発展」と人権や「基本的自由」へのリスペクト強化とは正反対の方向で現実化していたと思います。
平行して、日本でも(本人は「ポスト・モダン」であることを拒否するかも知れませんが)社会学者ピエール・ブルデューの文化的再生産論等のフランス仕込みの「ポスト・モダン」が台頭しました。東大教養学部や一橋大学社会学部等は、「ポスト・モダン」の中心地でした。その台頭の背景の一つには、人権等の近代の理念への失望や諦観等の気持ちがあったと思います。
冷戦終結と人権と日本
1989年、米ソ冷戦が終結し、1991年にソ連が崩壊し、市場経済がグローバル化しました。1993年、国連は人権の普遍性と不可分性と相互依存性を確認しました。1994年に国連は国連人権高等弁務官を創設し、1995年から「人権教育のための国連の10年」をスタートさせました。
翻り日本の教育界では、1991年に大学設置基準が大綱化され、制度化された戦後型教養教育としての「一般教育」が廃止され、教養教育も「自由化=規制緩和」されました。これは「人間(性)=“human beings”、“humanity”」の「自由化=規制緩和」でもあった可能性もあります。しかし、多くの大学では、教養教育の軽視と専門教育の重視という傾向が生まれ、日本国民の「教養形成=「人間」形成」が困難になったと思います。
1993年、8党派による非自民連立の細川護熈政権が成立し、55年体制を終焉させました。
冷戦終結と人権とイエズス会系上智大学
冷戦終結前後に、「教育(学)界版冷戦構造」とも言える東大の学内対立の「右翼の側=文部省・通産省側」にいた教育社会学者の清水義弘が再就職した、イエズス会系上智大学文学部教育学科は、臨教審答申に沿う教員人事を行いました。例えば、加藤幸次、香川正弘、渡辺文夫の各(助?)教授の採用です(+教育社会学者の武内清、日本近代幼児教育史学者の湯川嘉津美の(助)教授)。当時、イエズス会は信仰と正義推進の一致と「貧しい人々を優先する選択」を最高意思決定機関であるイエズス会総会で決定していました。総会をリードしたのは、広島県で被爆したアルペ総長(当時)でした。
もし「人権教育のための国連の10年」がスタートした1995年前後に、次のような特徴が確認出来た場合、その大学の方針は、国連の政策ともそれに沿う日本政府の政策とも、バチカンやイエズス会の方針とも一致しない可能性があります。
①「貧しい人々」への無関心、軽蔑、侮辱(大学のメンバーがイエズス会の方針に無知なこと。大学側の説明責任の欠如。多くの日本国民のイエズス会士もバチカンやイエズス会総会の意思決定に無関心で無視したこと)。
②ポツダム宣言が尊重するように命じた人権への無関心と侮辱。
③人権の抑圧と蹂躙(フィフティ・フィフティの人権の相互尊重の不成立)。
④<教育なるもの=似非「教育」>と「教育(education)」(世界人権宣言第26条)との不一致や資本主義体制内での<教育なるもの=似非「教育」>の「商品化」。
⑤「人格」の「全的発展」の不全(理性と良心と友愛の精神を持つ「人間」の解体)。
⑥理性の感情への従属(ポツダム宣言が「日本国」が進むべき道として重視した「理性」の発展の不全。「障礙」(ポツダム宣言)としての感情、特に劣情や愚昧と結合した感情)。
⑦被差別者と差別者の一致(例えば、差別される者が、他の種類の差別される者の人権を無視し差別するという複合差別)。
⑧人権問題と真剣に対峙しない(スポーツや趣味や恋愛を勧めたり、人権から環境に問題をすり替えたり、関心を日本から外国へ逸らしたり、説明責任を果たさずに外国語の学習を勧めたりする)。
⑨学生と人権の被抑圧者との連帯意識を破壊する(学生を利他的ではなく利己的に生きるように方向付ける)。
⑩メリトクラシー問題の無理解(1960年代の教育学界の研究の到達水準を踏まえていないこと)。
⑪事実上憲法で保障されている学問の自由が抑圧されている多くの国民への責任感が無いこと。
⑫日本や人類の未来への責任感も無いこと。
⑬大学教師や知識人の「マス(大衆)化」による機能不全。
もし事実認識として正しい場合、連合国軍の対日占領政策は失敗した可能性もあります。
人権とメリトクラシーと「格差社会」
2000年代に入ると日本でも「格差社会」論が流行し始めました。その中で、国連大学で日本ではメリトクラシーが理念的に実現していると主張した、自民党の小泉純一郎政権が成立し、郵便局も民営化しました。これは1980年代のネオ・リベラリズム政策の延長線上に位置付けることが出来ると思います。また、ネオ・リベラリズム政策と連動しつつ、不平等を積極的に推奨する思想も登場しました。その代表的思想家の一人は、山形県鶴岡市の出身でカトリック信者の渡部昇一上智大学名誉教授です。2001年に渡部教授は、『不平等主義のすすめ—二十世紀の呪縛を超えて—』という著作をPHP研究所から出版しました。PHP研究所は、1946年に松下電器産業(現在のパナソニック)の創業者の松下幸之助が創設した出版社です。
https://www.php.co.jp/company/history.php
1983年、松下は「世界を考える京都座会」を創設しましたが、渡部教授もその基本委員にも選ばれました。
https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/konosuke-matsushita/158.html
その上で渡部教授は同書で次のような「不平等主義」を提唱しました。
たとえば藤原紀香や松嶋奈々子は、「美しい」という理由によって何億円もの収入を稼いでいる。普通の女性、あるいは美しくない女性が、「こんな不平等なことがあっていいのか」と抗議したところで、これは仕方がない。もし「日本の女性をみんな平等にせよ」と唱えたとしても、日本の女性をすべて美女にすることは不可能である。しかし、日本の女性をすべて不美人にすることは、じつは簡単である。「女の子が生まれたら、三日以内に鼻に焼きゴテを当てるべし」という法律をつくればよいのである。これで日本中の女性はみんな平等に不美人になる。みんな美人にはできないが、みんな不美人にすることはできる。極端な例ではあるが、平等主義とはこういうものである。(中略)「平等」とは「一番悪いほうに合わせる」以外には実現し得ない。そのことを日本人ははっきりと認識すべきである。ほんとうに貧しい人に対しては当然、社会政策として最低限の救いがあってよい。ただし、その最低限は「飢えず、凍えず、雨露に当たらず、痛みをなくする程度の医療」であって、それ以上の面倒を国家が見る必要はない。「そこで諦める人はそのまま人生を送って下さい。しばらく羽を休めてから立ち上がって仕事に入る人はそれもよろしい」とするのが望ましい姿であろう。それ以上を与えれば、与えられた人間は必ず堕落する。本来平等ではあり得ないものを平等にしようというのは土台無茶な話なのである(渡部昇一『不平等主義のすすめ—二十世紀の呪縛を超えて—』PHP研究所、2001年、pp.45~47)。
ここにネオ・リベラリズムの日本的な展開の到達点の一つを確認することが出来ます。三つの特徴が指摘出来ます。
①人権のリストラによる最小国家。
②能力や人格形成の諸条件の平等化を殆ど伴わない、メリトクラシーの貫徹(渡部教授の不平等主義だと義務教育も無くなります)。
③公(国家)私区分の境界線が大幅に移動され、「公共」領域も最小化あるいは廃止されていること。
渡部教授の不平等主義の場合、「公共放送」も存在する余地が無い可能性もあります。そうすると公私の中間領域の「公共」が確保出来なくなり、公共放送のNHKも居場所を喪失しサバイバル出来なくなり、民営化されるかも知れません。
http://www.nhk.or.jp/info/about/intro/broadcast-law.html
人権とメリトクラシーと安倍晋三政権
現段階では外務省は、ホームページにある「人権外交」というページで、国際人権条約等の原文と邦訳を掲載しています。そこでは日本政府の人権政策への姿勢も明らかにされています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinken.html
「人権教育」をクリックすると、「人権教育のための国連の10年」や「人権教育のための世界計画」の情報も掲載されています。そこには次のような情報もあります。
「2004年4月 第59回国連人権委員会において,「人権教育のための世界計画」を提案する「人権教育の国連10年フォローアップ決議(2004/71)」が無投票で採択された(我が国は共同提案国)」。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinken/kyoiku/index.html
外務省側の情報が正しい場合、日本は「人権教育のための世界計画」の「共同提案国」だったことになります。しかし、同省のホームページにはポツダム宣言の原文と邦訳は無い可能性もあります。また、1993年の国連の世界人権会議で採択されたウィーン宣言及び行動計画もありません。ウィーン宣言及び行動計画の原文は、国連人権高等弁務官事務所のホームページでは確認することが出来ます。
http://www.ohchr.org/EN/ProfessionalInterest/Pages/Vienna.aspx
しかし、これだと人権に関する情報へは一般の国民は、アクセスし難い可能性があります。第一に法学や国際関係論等の専門知識、第二に英語(外国語)の原語能力が、アクセスへの障壁になる可能性はあります。
2006年に自民党の第一次安倍晋三政権が成立し、「教育憲法」と呼ばれた旧教育基本法を改正しました。しかし、メリトクラシーと結合した教育差別禁止原理は残しました。
その後、第二次安倍政権下の2014年に自民党は憲法改正草案を発表しました。
https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf
しかし、堀尾教授も既に指摘しているように、同草案では次の現在の憲法第97条「基本的人権の本質」が全文削除されています(堀尾輝久「安倍政権の教育政策ーその全体像と私たちの課題ー」、『法と民主主義』第488号、日本民主法律家協会、2014年5月)。
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
人権は全否定されている訳ではないが、人権の主体としての「個人」は削除され「人」一般に変換され、その「人」の権利が「公共」では無く「公(国家)益及び公(国家)の秩序」の中に再定位されています。これらの問題は、樋口陽一東大名誉教授や小林節慶応大学名誉教授も既に指摘しています(樋口陽一+小林節『「憲法改正」の真実』集英社新書、2016年の第3章)。
しかし、多くの国民は真実を知り、その問題性を理解していない可能性はあります。その大きな理由は、「基本的人権=「侵すことができない永久の権利」」に関する国民の無知です。人権擁護推進審議会答申も、国民の20%以上は基本的人権が憲法で保障されていることを知らないと指摘しています。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/jinken/06082102/016/008.htm
人権の国民の無知の大きな原因の一つは、日本における「教育(education)」の不在と商品化された<教育なるもの=似非「教育」>の横溢にある可能性もあります。1998年頃の日本の人権教育の状況を、堀尾教授も次のように指摘しています。
さらに、ユネスコ国際教育要項と書いたのは、国際的にはその問題がどう動いているのか、例えば、人権や平和の教育などはユネスコレベルでは当然のこととして強調もされているわけでしょ。かたや日本では、人権教育はむずかしい、平和教育というとなんとなく偏向教師に見られるような枠組みがつくられてきたわけだから、それに対する批判の視点というものを。国際的な視野も含めて僕らは持っていなくてはいけない。『教育国際資料集』(1998・青木)を作ったのもその頃です(堀尾輝久「公開インタビュー 教育学研究者として教育現実といかに向き合ってきたか」、『研究室紀要』第40号、東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室、2014年7月、p.79)。
おわりに
第二次世界大戦前の日本にも、大正デモクラシー等のように「民主主義的傾向」は存在しました。しかし、日本で人権が「降臨(advent)」(世界人権宣言前文)したのは、やはり第二次世界大戦後でしょう。しかも、その「降臨」も平坦ではありませんでした。幾重もの障害がありました。もしかしたら、世界人権会議での普遍性の確認から数十年が経過した現在でも、多くの国民の立場に立てば、まだ人権は「降臨」していないかも知れません。しかも、日本ではインターネットによる人権に関する最新情報へのアクセスも閉鎖的です。
何が問題なのでしょうか。
まず憲法が規定する国家体制上の大きな問題としては、血統原理と結合した象徴天皇制とメリトクラシーと結合した公正な教育機会均等原理の対立があると思います。原理の二重性や複数性の問題です。これは一原理主義か多原理主義かという国家体制のデザインに関係する問題です。
次に国家体制内の大きな問題としては、冷戦後の国連が「法の支配」とともに重視した「教育」、学校の「教育」に関係する問題です。世界人権宣言を基準にした場合、チェックポイントは二つあると思います。
①学校では真に「教育(education)」(世界人権宣言第26条)が行われているのでしょうか。学校では普遍としての人権の主体になるべき「人間」が形成されているのでしょうか(未完のプロジェクトとしての「人間」形成)。
②能力や人格あるいは「人間」形成の諸条件の不平等の問題は、学校における「教育」あるいは<教育なるもの=似非「教育」>によって解決出来るのでしょうか。
②は所謂「(文化的)再生産」の問題です。学校を階級/階層間のエレベーター装置のように捉え、メリトクラシーを極力実現させることによって、人格や「人間」やアイデンティティを破壊するリスクもある“climb out”へと方向付け、諸条件の平等を個人単位で利己的に実現させようとする調整プロジェクトには、限界があるかも知れません。自他の“well-being”を破壊してしまう可能性がある為です。しかし、今回提示した大きな仮説を実証しつつ、「再生産」問題も射程に入れつつ、規範理論的に応答することは、今後の課題にします。