「人間」と「教育」と「コミュニティ」の関係の理解

はじめに

「人間」と「教育」と「コミュニティ」の関係をどう理解すべきか、世界人権宣言を手掛かりに三者の関係を確認する。

日本の人権理解の現状―人権擁護推進審議会答申(1999年)―

我が国には今なお様々な人権課題が存在する(中略)国民一人一人において、個々の人権課題に関して正しく理解し、物事を合理的に判断する心構えが十分に備わっているとは言えないことが、それぞれの課題で問題となっている差別や偏見につながっているという側面もある。(中略)総理府が平成9年7月に実施した「人権擁護に関する世論調査」において、基本的人権が侵すことのできない永久の権利として憲法で保障されていることそれ自体を知らないと答えた者の割合が、回答者全体の20.1パーセントを占めており、その結果から見ても、基本的人権についての周知度がいまだ十分とは言えない状況にある。(中略)自分の権利を主張する上で他人の権利にも十分に配慮する必要があるという認識がいまだ国民の間に十分に浸透していないことがうかがわれる(下線は引用者による)。

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/jinken/06082102/016/008.htm

日本の人権教育の現状に関する堀尾輝久東大名誉教授の証言

さらに、ユネスコ国際教育要項と書いたのは、国際的にはその問題がどう動いているのか、例えば、人権や平和の教育などはユネスコレベルでは当然のこととして強調もされているわけでしょ。かたや日本では、人権教育はむずかしい、平和教育というとなんとなく偏向教師に見られるような枠組みがつくられてきたわけだから、それに対する批判の視点というものを。国際的な視野も含めて僕らは持っていなくてはいけない。『教育国際資料集』(1998・青木)を作ったのもその頃です(堀尾輝久「公開インタビュー 教育学研究者として教育現実といかに向き合ってきたか」、『研究室紀要』第40号、東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室、2014年7月、p.79)。

世界人権宣言第1条の普遍主義的「人間」観

All human beings are born free and equal in dignity and rights. They are endowed with reason and conscience and should act towards one another in a spirit of brotherhood.

https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに友愛の精神をもって行動しなければならない。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html

一部改訳

世界人権宣言第26条「教育への権利」以前の二つの教育の「意図」

I.L.カンデルによれば、世界人権宣言第26条「教育への権利」以前には、次の二つの意図が「教育の世界」を支配して来た(I.L.カンデル「教育と人権」、ユネスコ編[平和問題談話会訳]『人間の権利』岩波書店、1951年)。

①「それぞれの教派の宗教的信仰を子供たちに教え込むこと」。

②国民国家への忠誠心の培養。

カンデルによれば、二つの意図による教育は「人間としての自由のための教育よりもむしろ服従的な訓練を重んじた」。

世界人権宣言第26条「教育への権利」

1. Everyone has the right to education. Education shall be free, at least in the elementary and fundamental stages. Elementary education shall be compulsory. Technical and professional education shall be made generally available and higher education shall be equally accessible to all on the basis of merit.

2. Education shall be directed to the full development of the human personality and to the strengthening of respect for human rights and fundamental freedoms. It shall promote understanding, tolerance and friendship among all nations, racial or religious groups, and shall further the activities of the United Nations for the maintenance of peace.

3. Parents have a prior right to choose the kind of education that shall be given to their children.

https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

すべて人は、教育への権利を有する。教育は、少なくとも初等の及び基礎的の段階においては、無償でなければならない。初等教育は、義務的でなければならない。技術教育及び職業教育は、一般に利用できるものでなければならず、また、高等教育は、能力に応じ、すべての者にひとしく開放されていなければならない。

教育は、ヒューマン・パーソナリティの完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。教育は、すべての国又は人種的若しくは宗教的集団の相互間の理解、寛容及び友好関係を増進し、かつ、平和の維持のため、国際連合の活動を促進するものでなければならない。

親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_002.html

一部改訳

第26条「教育への権利」のJ.ピアジェの解説

 各個人が自由にしうる可能性との関係において、正常に発達する権利であり、社会にとっては、その可能性を、有効かつ有利に実現すべく変えていく義務である(堀尾輝久『現代教育の思想と構造』岩波書店、1971年、p.164)。

「教育を受ける権利」と「教育への権利」の違い

日本国憲法第26条は「教育を受ける権利」である。世界人権宣言第26条は、“the right to education”である。直訳すれば、「教育への権利」である。

堀尾輝久東大名誉教授も、1971年段階では、“the right to education”を「教育を受ける権利」と訳していた(堀尾輝久『現代教育の思想と構造』岩波書店、1971年、p.164)。現在の外務省の「仮訳文」でも「教育を受ける権利」と訳されている。https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_002.html

「教育を受ける権利」と「教育への権利」の違いが明確に意識されていない。

世界人権宣言第29条「コミュニティ」

世界人権宣言が目指す世界の理想は、全ての人々が自らの“personality”を自由で十全に発達させることが出来るコミュニティである。

Everyone has duties to the community in which alone the free and full development of his personality is possible.

https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

すべて人は、そのパーソナリティの自由かつ完全な発展がその中にあってのみ可能であるコミュニティに対して義務を負う。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_002.html

一部改訳

「ヒューマン・パーソナリティ」と「パーソナリティ」の違い

第26条「教育への権利」では、「ヒューマン・パーソナリティ」が使用されている。それに対し第29条の「コミュニティ」の規定では、「パーソナリティ」が使用されている。では「ヒューマン・パーソナリティ」と「パーソナリティ」とはどう違うのか。恐らくその違いの証明は、学問界でも決着がついていない。というより両者の違いそのものが学問的に正面から問われていない可能性もある。

第1条と第26条を重ねて解釈する場合、「ヒューマン・パーソナリティ」の「ヒューマン」とは、“reason” と“conscience”と“a spirit of brotherhood”を持つことである。

「ヒューマン・パーソナリティ」には、一定の「ヒューマン」であることの制約があると考えられる。

「ヒューマン・パーソナリティ」からズレる「パーソナリティ」の事例―比較文明学者の服部英二の「人間」観―

比較文明学者の服部英二は、ユネスコ事務局長の顧問等も歴任した人物である。

個人としての服部の主観的「人間」観は、①感性、②霊性、③理性を持つ存在である。

われわれの追求する「通底価値、すなわちすべての民族が分かち合える未来的倫理とは、感性のみによるものではなく、あくまでも互敬の立場に立ち、感性・霊性と響き合う理性によってのみ通達可能なものと知るべきでしょう(服部英二『未来を創る地球倫理ーいのちの輝き・こころの世紀へー』モラロジー研究所、2013年、p.168)。

②霊性とは、『広辞苑(第6版)』(岩波書店)によれば、次のような意味がある。

宗教的な意識・精神性。

物質を超える精神的・霊的次元に関わろうとする性向。

スピリチュアリティ。

服部はカトリック信者である。とすると服部は自己の特定の宗教的立場から「人間」観を変換しようとしている。しかも、個人的な次元に止まらず、ユネスコにも大きな影響を与えている。

しかし、世界人権宣言を基準にした場合、服部の「人間」観は、「ヒューマン・パーソナリティ」ではなく、「パーソナリティ」と言える。「ヒューマン・パーソナリティ」の基礎の上で、自由に十全に発達させるべき一つの「パーソナリティ」と位置付けるべきものである。

「日本人」のユネスコ関係者の問題点

ユネスコ憲章前文の冒頭には、次のようにある。

戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。

https://www.mext.go.jp/unesco/009/001.htm

しかし、ユネスコ憲章は人権も重視している。この憲章の前文は、憲章の全文を通して理解すべきものである。

しかし、戦後の「日本人」のユネスコ関係者は、憲章の前文のみ強調して来た可能性がある。

服部の「人間」観の転換、「普遍」から「通底」への転換の試みは、こうした「日本人」のユネスコ関係者の歴史の延長線上に位置付けられて評価されるべきものである。

こうした転換は、「文化的多様性」の尊重という文脈の中で行われている。

「普遍」と「文化的多様性」の関係を問う必要がある。

関係を慎重に問わないと「普遍」は「文化的多様性」に転換される可能性もある。

国民はこの人権を転換しようとする動きに注意する必要があるだろう。

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