はじめに
第二次世界大戦後、日本は基本的人権を保障する日本国憲法を公布、施行しました。しかし、間もなく米ソ冷戦が始まりました。当時、人権の理解や評価は分裂していました。人権教育の実践も困難だった可能性もあります。
冷戦終結と同じ1989年に、国連は子どもの権利条約を採択しました。
ソ連崩壊後の1993年には、国連は世界人権会議で人権の普遍性を確認しました。バチカンも人権にはコミットしています。しかし、戦後教育学のリーダーの堀尾輝久東大名誉教授のような研究者や人権擁護推進審議会答申も、日本では人権も子どもの権利も定着していないと指摘しています。人権が定着していないということは、まだそれが日本では「土着」、「受肉(インカルチュレーション)」していないということです。これはプロテスタントの側から思想史研究者の武田清子ICU名誉教授が、ずっと考えて来た問題だと思います。では冷戦終結前後の日本の教育学界で教育学者は何をしていたのでしょうか。ラフ・スケッチしてみます。
冷戦終結前後の日本
1982年に自民党の中曽根康弘政権が成立しました。その後、中曽根政権は第二次臨調路線に基づいて行政改革、税制改革、教育改革を推進しました。1984年には、その後のネオ・リベラルな教育政策の起源となった臨時教育審議会が設置されました。1985年から1987年に同審議会は答申を出し、個性尊重の教育、生涯学習体系への移行、国際化・情報化等の変化への対応を強調しました。また、教育の機会均等を批判し、「教育の自由化」を強調しました。
平行して、電電公社、専売公社、国鉄が民営化され、NTT、JT、JRになりました。国鉄の労働組合員は国鉄清算事業団に移動されリストラされました。
この真の目的は、国営企業のサービスの質の低さ等への国民の不満を取り付けつつ、与党の反対しかしない左翼政党の支持基盤を解体させる点にあったと言われています。
この時、郵便局は民営化されませんでしたが、小泉純一郎政権の時に民営化されました。
http://www.post.japanpost.jp/index.html
公共放送のNHKはまだサバイバルしているようです。
http://www.nhk.or.jp/info/about/intro/broadcast-law.html
その後、法哲学界や政治哲学界等の学問界で「公共性」を再定義する動向が現れ、現在も議論は継続されています。この動向を踏まえて、NHKは「公共放送」を再定義しているでしょうか。あるいは曖昧である為に、国家権力の恣意性が反映され易いというデメリットがある「公共の福祉」というタームに止まるのでしょうか。
1989年、米ソ冷戦が終結しました。
自民党はこれを自らの「勝利」と認識しました。自民党の2010年の綱領では、次のような現状認識が示されました。
「我が党は、「反共産・社会主義、反独裁・統制的統治」と「日本らしい日本の確立」―の2つを目的とし、「政治は国民のもの」との原点に立ち立党された。平成元年のベルリンの壁の崩壊、平成3年のソ連邦の解体は、この目的の1つが達成されたという意味で、我が党の勝利でもあった」。
https://www.jimin.jp/aboutus/declaration/
しかしその後、イエズス会系上智大学の卒業生で、朝日新聞社の記者(ジャーナリスト)でもあった、細川護熙連立政権の成立により、日本版冷戦構造だった55年体制も崩壊しました。計算違いだったのかも知れませんが、自民党は下野しました。また、55体制の一翼を担った日本社会党は社民党に党名を変更しましたが、少数政党化し現在に至っています。
http://www5.sdp.or.jp/member/member.htm
もしかしたら健全で政権担当能力を持つ社会民主主義政党は、日本にはまだ無いのかも知れません。日本の自生的な社会民主主義の一つとしては、クエーカー新渡戸稲造の弟子の河合栄治郎の社会民主主義があります。河合は、J.S.ミル、トーマス・ヒル・グリーン、イギリス労働党、フェビアン協会の思想的な影響を受けていました。第二次世界大戦後、民社党が河合の社会民主主義を日本で実現させようとしましたが、現在はもうありません。
しかし、世界的に共産党が消滅した冷戦後も、日本共産党はサバイバルしています。独自の収入源があるからでしょうか。そうすると自民党の「勝利」宣言は、同党の存在を無視することを前提にしている可能性があります。
http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Koryo/
自民党の日本共産党に対する姿勢は、自分自身と思想や信条や意見が違う他者や集団にはどこまで寛容である必要があり、どのようなレベル以上になると不寛容でも良いのかという問題を示していると思います(差異への寛容の限界の問題)。
冷戦終結前後の日本の教育学界
冷戦期の教育学界にも冷戦構造は見られました。教育学界ではその対立は、ある意味で「教育学vs.教育社会学」という対立構造として現れたと思います。特に東大教育学部ではその対立が顕著でした。左翼からリベラルの側にいたのは、勝田守一東大教授(京都帝大卒[京都学派で有名な文学部哲学科か]、旧制松本高等学校の元教諭)や政治学者の丸山眞男と勝田教授の弟子の堀尾輝久東大(助)教授等でした。右翼、特に文部省や通産省の側にいたのは教育社会学者の清水義弘東大(助)教授でした。
清水教授は退官後、イエズス会系上智大学文学部教育学科に再就職しました。その頃、清水教授は、東大時代の学内対立を次のように回想しました。
「最もシリアスな問題は、卒業論文と修士論文の審査の際、評定をめぐって学科内で毎年対立したことである。海後教授はもちろん中立的だったが、勝田教授、特にある助教授にいたってはそうではなかった。彼は、「進歩的」で「民主的」で「観念的」な論文が好きなようで、「人間を尊重する教育」といった題目には目が無かった。読んでみると、その論文は大抵の場合傾向的な新聞や雑誌からの引用だった。彼はこれを「問題意識が鋭い」と言って、いつも高得点を出した」(清水義弘『なにわざを。われはしつつか。―教育社会学と私―』東信堂、1987年、p.69)。
1980年代になると堀尾東大教授は、臨教審答申の「教育の自由化」論を「公教育の解体」と評価して批判し、人権としての「教育の公共性」を対置しました(堀尾輝久「教育の自由と公共性―「自由化」論批判を中心に―」、『季刊 教育法』第57号、エイデル研究所、1985年7月)。
その頃、学問界や思想界では「ポスト・モダン」が台頭していました。「ポスト・モダン」のトレーガーと目されたのは、ミッシェル・フーコー、フィリップ・アリエス、ピエール・ブルデュー等でした。
教育学界と社会学界の双方で注目されたのは、フランスの社会学者ブルデューの文化的再生産論でした。
1986年、日本教育社会学会大会では「文化的再生産論の可能性」をテーマとする課題研究報告会が開催されました。教育社会学者の志水宏吉氏は、課題研究報告会でブルデューに注目する理由を次のように説明しました。
「近年「文化的再生産論」と総称される欧米の研究動向が注目されている。これは、社会構造の再生産を、公教育制度内での文化伝達を軸とする文化的再生産の過程との関連から考察しようとするものである。本課題研究では、対象を明確にする必要から、この動向の中心的な推進者であるブルデューの研究に対象を絞ることにした」(志水宏吉「課題研究報告Ⅱ 文化的再生産論の可能性」、『教育社会学研究』第42集、1987年)。
その後、東大教育学部の教育社会学者グループがブルデューが示したフランス型文化的再生産を日本でも実証しようと試みましたが、なかなか実証出来ませんでした(例えば、藤田英典[他]「文化の構造と再生産に関する実証的研究」、『東京大学教育学部紀要』第32巻、1992年等)。研究者によっては文化的再生産の相対的な実証のし易さという点から、戦前の日本を研究対象にする者もいました。
教育社会学者の竹内洋京大教育学部教授(現在、名誉教授。当時、助教授か)も、その一人だった可能性はあります(竹内洋『立志・苦学・出世―受験生の社会史―』講談社現代新書、1991年、特に第5章。同『立身出世主義―近代日本のロマンと欲望―』日本放送出版協会、1997年。同『日本の近代』第12巻(学歴貴族の栄光と挫折)中央公論新社、1999年。同「近代日本の教養主義ー文学部・岩波文化・知識人ー」、『日本教育社会学会大会発表要旨集録』第54号、2002年。同『丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム―』中公新書、2005年。同『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年。同『大衆の幻像』中央公論新社、2014年[竹内教授は「日本型ノブレス・オブリージュ」なるものの真髄について論じた]。同「鉄のトライアングルが崩れたー進歩的文化人、岩波、そして朝日の凋落ー」、『中央公論』第129巻第11号、中央公論新社、2014年11月等)。
竹内教授の著作の大半は、岩波書店等のような評価が高い(かった)学術系出版社ではなく、以前は「イエロー・ジャーナリズム」と評価されていた読売新聞社の傘下に入り、社名が「中央公論社」から「中央公論新社」に変更された社から出版されていることが確認出来ます。イデオロギー的な相関関係があるのでしょうか。「マス=大衆」を「洗脳」する効果があり得るマス・メディアが流す、小中学生にも理解出来るレベルに加工され商品化された情報は、資本関係の側から分析する必要もありますが、現時点では良く分かりません。
いずれにせよ竹内教授は、教養主義を徹底的に批判しています。多くの場合、教養と教養主義を区別していないので、教養そのものへの徹底的な批判になっていると思います。それは以前は「岩波知識人/文化人」だった(現在も?)勝田東大教授や堀尾東大名誉教授との代理戦争でしょうか。しかし、この「教養(主義)批判=代理戦争」説は、一つの仮説に過ぎず、現時点では実証出来ません。
最後に一つ補足すると、当時、一橋大学社会学部、特に教育社会学研究室も、文化的再生産論の一つの拠点になり出した頃だと思います。そのリーダーの一人は、K.マンハイムの研究者で、イギリスの文化的再生産論に関心を示した久冨善之一橋大学名誉教授でした(久冨善之編著『豊かさの底辺に生きるー学校システムと弱者の再生産ー 』青木書店、1993年)。
おわりに
まず冷戦終結前後、中曽根政権下の日本の教育学界では、「教育の自由化vs.教育の公共性」という議論があったことが確認出来ます。次に文化的再生産論への注目も確認出来ます。
右翼の側にいた清水東大名誉教授が再就職したイエズス会系上智大学文学部教育学科では、臨教審答申路線に沿う教員人事が行われました。例えば、個性化教育の研究者である加藤幸次教授、生涯教育・学習の研究者である香川正弘教授、異文化(間)教育学者の渡辺文夫教授等の採用です。
異文化間教育(学)は、通常、農民や漁民等の第1次産業の従事者のような非エリート層による抗議は無視しますが、エリート層の親による帰国子女の子どもが虐めに遭うことへの抗議は受け止めて、文部省が取り組み出した教育(学)だとも言われています。しかし、事実認識として正しいかは議論の余地があります。この説は実証が必要です。
しかし、1981年には「異文化間教育学会」という学会も設立されています。
http://www.intercultural.jp/about/index.html
臨教審路線には直接関係無いかも知れませんが、教育社会学を担当した清水教授の後任には彼の東大時代の弟子だった武内清教授(当時、助教授か)を採用しました。武内(助)教授は、学生や生徒の「下位文化」の研究者でした(武内清「生徒の下位文化をめぐって」、『教育社会学研究』第27集、1972年10月。同「現代高校生の下位文化ー4校の調査からー 」、『武蔵大学人文学会雑誌』第10巻第4号、1979年3月)。そうすると武内教授はイエズス会系上智大学在職中ずっと「下位文化」について考えたり、調査、分析していたのかも知れません。
また、前後して日本幼児教育史の研究者である湯川嘉津美助教授(当時)も採用しました。当時、幼児教育への学生のニーズがあったと言われています。
当時、文学部内に設置されていた教育学科は、現在はその後新設された総合人間科学部内に設置されています。
http://www.sophia-humans.jp/department/01_education.html
では(教育)政策史、教育(学)史あるいはカトリック教育史やイエズス会教育史、より対象を限定すれば、第二バチカン公会議以降の日本のカトリック系学校改革史の中で、同学科はどういう位置を占め、どのような意義を持ったのでしょうか。しかし、その検討は今後の課題とします。
コメント
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