「日本人」は普遍主義的「人間」か?

はじめに

「日本人」は「人間」か。

「ヒト」には様々な次元があるる

サイエンスの次元では、「日本人」にもヒトゲノムが存在することは証明されている。

また、日本人は「人間」と自称し, 他称されたりする。

法的な次元でも、「人間」とされ、そう扱われている。

宗教の次元でも、多くの場合、「人間」としてイメージされているだろう。

他方、イメージの次元では、「日本人」は、「人間」ではなく「動物」とイメージされることもある。また、「日本人」自身、自らを「動物」とイメージしたり、することがある。

では、サイエンスの次元で、「日本人」は「人間」、特に普遍主義的「人間」なのか。

「日本人」が普遍主義的「人間」で無い場合、劣等感や「コンプレックス(劣等感+優越感)」等の感情を精神内容内に発生させるのか。

また、「日本人」内でも普遍主義「人間」化への変化としての「進化」にも差異があるのか。「進化」にも差異があり、重層性が存在するのか。

「日本人」は、“reason”を使用し真偽判断する「考える」ことをするのか。

「考えない」のか。

“reason”が存在しないと、「考える」ことはしない。

また、“reason”を使用して真偽判断して「真理」を追究する「学問」や「研究」をするのか。

日本の法の次元で「大学」と承認されている組織では、「学問」や「研究」されているのか。

「学問」や「研究」が存在しない組織もあるのか。

「日本人」のヒトの「教育」は、普遍主義的「人間」への変化としての「発達」を促進するのか。

「日本人」は、「ヒト」を「人間」化する「教育」をするのか。

日本の法の次元で、「学校」として承認されている組織では、「教育」が行われているのか。

「教育」が行われていなければ、強制的な「人間」化である義務「教育」は、客観的には意味がない。

義務「教育」が存在しないと、「日本人」に「人間」化を強制出来ない。後天的に自然発生的に「人間」化しなければ、後天的には「人間」化は促進しないのか。

サイエンスの次元で、「日本人」が「人間」でないことが証明された場合、「人間」を前提にした法や倫理等の諸規範は再定義、再定位する必要があるのか。

日本は「ヨーロッパ人権文明」ではないが、日本国憲法があるので「ヨーロッパ人権文明」と互換性もある。しかし、「日本人」が、「人間」でなったり「人間」化しない場合、憲法の基本的規範を変更する必要があるのか。

国連の普遍主義的「人間」観

1948年、国連は世界人権宣言を採択した。第1条では、次のような普遍主義的「人間」観が示されている。

All human beings are born free and equal in dignity and rights. They are endowed with reason and conscience and should act towards one another in a spirit of brotherhood.

普遍主義的「人間」は、“reason”と“conscience”と“a spirit of brotherhood”を持つ「人間(human being)」である。

国連の「教育」観

第26条「教育への権利」

 Education shall be directed to the full development of the human personality and to the strengthening of respect for human rights and fundamental freedoms.

国連の 「教育」観とは、次の二つの条件を備えたものである。

①“the full development of the human personality”に方向付けられたもの。

②“the strengthening of respect for human rights and fundamental freedoms” に方向付けられたもの。

国連の「教育」とは、生物学的な意味での「ヒト」を、“the human personality”を持つ「人間」に変化させることでもあると言える。

個人の主観的「人間」観ー比較文明学者の服部英二の場合ー

人間の個人の主観的「人間」観には多様性がある。その中には、普遍主義的「人間」観と一致しないものもある。

その例としては、比較文明学者の服部英二「人間」観がある。服部はユネスコ事務局長の顧問等も歴任した人物である。

われわれの追求する「通底価値、すなわちすべての民族が分かち合える未来的倫理とは、感性のみによるものではなく、あくまでも互敬の立場に立ち、感性・霊性と響き合う理性によってのみ通達可能なものと知るべきでしょう(服部英二『未来を創る地球倫理ーいのちの輝き・こころの世紀へー』モラロジー研究所、2013年、p.168)。

個人としての服部の主観的「人間」観は、①感性、②霊性、③理性を持つ存在です。

「われわれの追求する」とあるように、服部は自らの主観的「人間」観を客観的「人間」観と誤認した上で、「人間」観を変換しようとしている。

服部は“reason”を使用して著作を執筆していない。事実認識として正しい場合、恐らく「日本人」である服部は、普遍主義的「人間」ではない可能性がある。

日本の「学校」の主観的「教育」観ーイエズス会系上智大学の場合ー

日本には「学校」として法的に認可され、教育あるいは「教育」機関を客観的ではなく主観的に自称している組織が存在する。

その例として、イエズス会系上智大学がある。

上智大学は、ホームページでも自らの主観的「教育理念」を提示している。

https://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/sophia-idea/sophia_idea.html

しかし、客観的には上智大学は「教育」機関ではない可能性が高い。

2001年、上智大学文学部英文学科に在職していた、「日本人」の渡部昇一同大学名誉教授は、次のような「不平等主義」を主張した。渡部はカトリック信者でもある。

たとえば藤原紀香や松嶋奈々子は、「美しい」という理由によって何億円もの収入を稼いでいる。普通の女性、あるいは美しくない女性が、「こんな不平等なことがあっていいのか」と抗議したところで、これは仕方がない。もし「日本の女性をみんな平等にせよ」と唱えたとしても、日本の女性をすべて美女にすることは不可能である。しかし、日本の女性をすべて不美人にすることは、じつは簡単である。「女の子が生まれたら、三日以内に鼻に焼きゴテを当てるべし」という法律をつくればよいのである。これで日本中の女性はみんな平等に不美人になる。みんな美人にはできないが、みんな不美人にすることはできる。極端な例ではあるが、平等主義とはこういうものである。(中略)「平等」とは「一番悪いほうに合わせる」以外には実現し得ない。そのことを日本人ははっきりと認識すべきである。ほんとうに貧しい人に対しては当然、社会政策として最低限の救いがあってよい。ただし、その最低限は「飢えず、凍えず、雨露に当たらず、痛みをなくする程度の医療」であって、それ以上の面倒を国家が見る必要はない。「そこで諦める人はそのまま人生を送って下さい。しばらく羽を休めてから立ち上がって仕事に入る人はそれもよろしい」とするのが望ましい姿であろう。それ以上を与えれば、与えられた人間は必ず堕落する。本来平等ではあり得ないものを平等にしようというのは土台無茶な話なのである(渡部昇一『不平等主義のすすめ―二十世紀の呪縛を超えて―』PHP研究所、2001年、pp.45~47)。

渡部は、教育権を承認していない。また、彼の「不平等主義」は、女性差別である可能性がある。“a spirit of brotherhood”が確認出来ない。ある上智大学文学部英文学科の卒業生も、授業を受けていて渡部が女性差別者であることが確認出来たと証言している。

精神的背景には、女性への「ルサンチマン(怨念)」等の感情が存在すると推測出来る。その場合、“reason”と“conscience”ではなく、感情に従属していることになる。そうすると他者との相互作用は、他者の“the human personality”の破壊になる。“conscience”が存在しないと善悪を識別しない為、精神世界に罪悪感が発生しない。罪悪感が存在しない場合、自己の生を修正しない。自己修正しないと、他者の“the human personality”の破壊する「侮辱」表現等を修正しない。しかし、自己が「侮辱」さるれことには寛容ではない。

“the human personality”の破壊を回避する為、他者はその存在を回避する。しかし、当事者は他者の自己回避の原因や理由等を客観的に認識せず、誤認を続ける。あるいは原因や理由等を分かったり、理解出来ないという精神内容を抱いたり、日本語では「不愉快」と称される感情が精神内に発生したりする。

また、破壊者は、複数の個体の共存を可能にする「公共性」の破壊者でもある。「公共性」の破壊を回避する場合、職業選択の自由は制限する必要がある。特に国連の「教育」者と必ずしも一致しない「教師」と称される職業選択の自由は制限する必要がある。特に日本で「自治」が法的に承認されている大学での採用は制限する必要がある。もし採用すると警察権力等の国家権力も逮捕等の直接的介入が出来なくなる。そうすると採用する場合、身元調査等の確認も必要になる。

もし当人が自由の制限を回避する場合、規範や「公共性」の内容を変えようとする。実際、渡部は「道徳」等の規範を変更させ、教育の規制緩和である「教育の自由化」論を主張し、中曽根康弘内閣が設置した臨時教育審議会の専門委員等にも就任していた。

客観的には、同大学は「教育」機関ではない可能性がある。しかも、それは単に「教育」機関ではないだけでなく、“the human personality”を破壊する暴力機関である可能性がある。

その場合、上智大学は「公教育(日本では私立校も含む)」で公然と詐欺を行っていることになる。そうすると文部科学省も詐欺を追認していることになる。

また、他の国家権力も公的な裁きを与えていない。

また、渡部は、生物学的な意味では「ヒト」だが、普遍主義的「人間」ではない可能性がある。

しかし、渡部が普遍主義的「人間」ではないことを科学的に証明するには、もっと総合的に研究する必要がある。

その時、最も重要なのは、渡部のヒトゲノムを調査して、科学的に証明する研究である。

「日本人」は普遍主義的「人間」か?

「日本人」のカトリック信者の上智大学教授には、10年位のスパンで観察していても、普遍主義的「人間」であることが確認出来ない「ヒト」も存在した。

日本のカトリック信者は、普遍主義的「人間」では無い可能性もある。しかし、まだ科学的には証明されていない。

しかし、事実認識として正しい場合、「私」としての個人は良いのかも知れないが、「公共性」は発生しない。

もしその個人が「公教育」等の公的領域に存在する場合、「公共性」の破壊者になる。法的には公(共)的機関での採用を制限すべき対象になる。

また、彼等は「日本人」でもある。そうすると「日本人」自体が、普遍主義的「人間」では無い可能性もある。

普遍主義的「人間」とは、“reason”と“conscience”と“a spirit of brotherhood” や“the human personality”を持つ「ヒト」である。

普遍主義的「人間」で無いと、真偽、主客、自他、善悪等を識別せず、“the human personality”を以て他と関係しないことを意味する。その場合、当然、批判的“reason”や反省的“reason”は存在しない。そうすると客観的に自己を反省せず、感情的に生きることになる。また、自分の主観や感情等によってのみ世界を知覚することになる。

実際、人類学者は、そう指摘して来た。例えば、ルース・ベネディクトの『菊と刀』や中根千枝『タテ社会の人間関係』(講談社、1967年)。

「日本人」自身も、主観的に「日本人」は「人間」では無いと考え来た。例えば、クエーカー新渡戸稲造。新渡戸は、ユネスコの前身である知的協力委員会の創設にも関与した人物である。

しかし、ベネディクトの研究は、現在では反証されている。また、中根の説は、エビデンスが提示されていない。

ヒトゲノムから見た「日本人」

国立遺伝学研究所集団遺伝研究部門(2009年時点)の斎藤成也によれば、「日本本土人」、「沖縄人」、「アイヌ人」のヒトゲノムが異なる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/asj/117/1/117_1_1/_pdf/-char/ja

しかし、2009年時点では、「日本人」は普遍主義的「人間」ではないことは科学的には証明されていない。

その後、ヒトゲノムの研究は進展した。

現在、ヒトゲノムのレベルでは、「日本人」が普遍主義的「人間」でないことが、科学的に証明されているのかは不明である。

最新の研究をリサーチする必要がある。

「教育」の意味

国連の「教育」は、“the human personality”を持つ「人間」に変化である。

この変化は、「発達(development)」とされる。

ヒトゲノムのレベルで「日本人」が普遍主義的「人間」では無い場合、「教育」しても“the human personality”を持つ「人間」に変化しない。

しかし、後天的な相互作用は無意味では無いという説もある。

その説が事実認識として正しい場合、ヒトゲノムのレベルで「日本人」が普遍主義的「人間」では無い場合でも、「教育」すれば変化が発生する場合もある。

しかし、日本の「学校」が提供している教育は、上智大学の事例が示すように、客観的には「教育」ではない。

「教育」をしなければ、当然、効果は無い。

もし変化を発生させることが規範的に正しい場合、日本の「学校」は、主観的教育ではなく、客観的「教育」を提供する必要がある。

おわりに

2009年時点では、ヒトゲノムの視点から見て、「日本人」が普遍主義的「人間」なのかは証明されていない。

ヒトゲノムの視点から見て「日本人」に対する「教育」効果があるのかも証明されていない。

新渡戸は「日本人」を「猿」とイメージしたが、ヒトゲノムと猿のゲノムにはかなりの距離や差異があると言われている。事実の場合、ゲノムのレベルで「日本人」が相対的に猿に近い訳ではないと言える。つまり客観的な真理ではなく「偏見」に過ぎない。

また、「日本人」の中にも集団によってヒトゲノムが異なり、「個人」と呼ばれる個体差もある。更に言えば、時間によっても混血によってもヒトゲノムは変化する。

恐らく一般的には普遍主義的「人間」化への変化を「ヒト」の「発達」や「進化」と考えられている。

「発達」や「進化」の程度には、集団差や個体差もある。もし後天的な相互作用としての「教育」にも効果がある場合、後天的にも「発達」することになる。

しかし、もし「教育」ではない教育が行われている場合、当然、「教育」効果は無いと考えられる。そうすると普遍主義的「人間」化も進展しないことになる。その結果、「進化」の過程を促進することは出来無い。

ヒトゲノムの研究の進展によって、「日本人」が普遍主義的「人間」で無いこと、あるいは、それに向けた「進化」が相対的に進展していないことが、サイエンスによって証明された場合、法や倫理等の諸規範も再定義、再定位する必要がある。

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