はじめに
今なぜ日本で「友愛」か。
「友愛」は、歴史的には日本でも世界でも、しばしば軽視され忘却された政治理念でした。
しかし、鳩山友紀夫民主党政権は、その「友愛」を政治理念として掲げました。
そして、2019年に鳩山は共和党結党準備に取り組み、「友愛」を「共通善」として再度掲げました。
しかし、鳩山自身によれば、日本のマスコミには無視されています。
では鳩山の「友愛」論とは何か。
ここでは「友愛」論の内容を、鳩山のホームページに掲載されている「友愛とは―祖父・一郎に学んだ「友愛」という戦いの旗印―」(2009年=衆議院議員時代)という記事を手掛かりに確認します。
http://www.hatoyama.gr.jp/ui.html
そしてその上で、鳩山の「友愛」論の今日的意義と課題について若干の考察を行います。
尚敬称は省略します。
現代日本と「友愛」論ー人権と「思いやり=“caring”」との関わり――
1789年、フランス革命の理念は、自由、平等、友愛です。
しかし、フランス人権宣言では、友愛が無くなりましたが、その後、共和国憲法で再登場しました。
1930年代にナチズムの台頭によりアメリカに亡命したエーリッヒ・フロムは、「自由」を自発的な「愛(love)」を軸に捉え、全体主義の対抗理念としました。フロムの「愛」は恋愛の「愛」ではなく包括的な「愛」であるので「友愛」も含みます。
1948年の世界人権宣言第1条でも、自由と平等が重視されます。同宣言は自由で平等な「人間」観を提示し、「友愛の精神」を以て行動すべきという規範を示しました。ここで「友愛」が再登場します。
戦後教育学のリーダー堀尾輝久も、フランス革命の理念まで遡り、「自由」や「平等」の意味を確認し、「逆コース」期の1960年代以降の日本の文脈で、それらの価値を教師の「教育の自由」を核とする「国民の教育権」と「教育における正義の原則」によって日本でも実現させようと試みました。しかし、一種の「社会主義」だった同原則には、「自由」も「友愛」もありませんでした。
堀尾は、世界人権宣言の「友愛」も継承、展開しなかった可能性もあります。しかし、1970年代以降、後期普通教育がユニバーサル化する中で、堀尾は「思いやり=“caring”」の大切さをに気付き、強調するようになりました。
冷戦後、国連の世界人権会議では人権の「普遍性」が再確認されました。
現代日本でも人権と「友愛」と「思いやり=“caring”」との関係が問われていると思います。
鳩山友紀夫の「友愛」論の思想的源流ー祖父・一郎の「友愛」論ー
フランス革命の理念/スローガン・・・自由、平等、友愛(“love”ではなく“fraternite”)。
クーデンホフ・カレルギー・・・日本公使のオーストラリア貴族と日本人女性の子ども。
カレルギー『汎ヨーロッパ』(1923年)・・・EUの理念的源流である「汎ヨーロッパ運動」の提唱。
同『 Totalitarian State Against Man (全体主義国家対人間)』(1935年)・・・
①「ソ連共産主義とナチス国家社会主義に対する激しい批判と、彼らの侵出を許した資本主義の放恣に対する深刻な反省」。批判の対象はフロムと同じです。
②「資本主義が深刻な社会的不平等を生み出し、それを温床とする「平等」への希求が共産主義を生み、さらに資本主義と共産主義の双方に対抗するものとして国家社会主義を生み出した」。
③「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」。
④「人間は目的であって手段ではない。国家は手段であって目的ではない」。
☆「友愛革命」論へ展開。
☆カレルギーとフロムと鳩山一郎との「友愛」や「愛」の比較?
鳩山一郎・・・『Totalitarian State Against Man (全体主義国家対人間)』を『自由と人生』というタイトルで邦訳。
鳩山一郎『友愛青年同志会綱領』(1953年)。
『自民党基本憲章』(1965年)へ展開。
同第1章「人間の尊重」・・・「人間はその存在が尊いのであり、つねにそれ自体が目的であり、決して手段であってはならない」。
冷戦後における「友愛」の再定義一「個の自立の原理」と「他の共生の原理」ー
米ソ冷戦後の鳩山友紀夫の「自民党」観・・・
①「経済成長自体が国家目標であるかのような惰性の政治に陥り」。
②「変化する時代環境のなかで国民生活の質的向上をめざす政策に転換できない事態が続いた」。
③「政官業の癒着がもたらす政治腐敗」。
鳩山友紀夫・・・祖父が創設した自民党の離党⇒新党さきがけの結党に参加⇒1996年、民主党の設立。
「(旧)民主党」の「立党宣言」(1996年年9月11日)・・・
「社会の根底」・・・「自由=弱肉強食の放埒」でも、『出る釘は打たれる』的「悪平等」でもなく、「友愛」⇒100年間軽視された。
「「国民」軽視としての「大衆」論」への批判。
「友愛」の意味は文脈に依存⇒「友愛」の再定義・・・
①「個の自立の原理」・・・「私たちは、一人ひとりの人間は限りなく多様な個性をもった、かけがえのない存在であり、だからこそ自らの運命を自ら決定する権利をもち、またその選択の結果に責任を負う義務がある」。
②「他の共生の原理」・・・「そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働する」。
「友愛」の政治的展開―衰弱した伝統的共同体で「公共」領域の復興と創造ー
冷戦後の市場経済のグローバル化=グローバル資本主義⇒「グローバルスタンダード」=経済のアメリカ中心主義。
結果・・・「伝統」を基礎にした「国民経済」破壊。
グローバル資本主義の破壊効果への抑止力としての「友愛」。
「友愛」=「人間の尊重」の基礎としての(地域)共同体の重要性。
「友愛」の政治的展開・・・
・共同体を守る規制の強化。
・衰弱した伝統的な「公共」領域の復興と創造・・・NPO等の役割の増大。
具体策・・・「経済外的な諸価値」の尊重、「人と人との絆の再生」、「自然や環境への配慮」、「福祉や医療制度の再構築」、「教育や子どもを育てる環境の充実」、「格差の是正」等。
「友愛」の「現代化」―「地域主権国家」と「東アジア共同体」―
①「地域主権国家」
「友愛主義の政治的必須条件は連邦組織であって、それは実に、個人から国家をつくり上げる有機的方法なのである。人間から宇宙に至る道は同心円を通じて導かれる。すなわち人間が家族をつくり、家族が自治体(コミューン)をつくり、自治体が郡(カントン)をつくり、郡が州(ステイト)をつくり、州が大陸をつくり、大陸が地球をつくり、地球が太陽系をつくり、太陽系が宇宙をつくり出すのである」(クーデンホフ・カレルギー『全体主義国家対人間』第12章「友愛革命」)。
「補完性の原理」・・・
「個人でできることは、個人で解決する。個人で解決できないことは、家庭が助ける。家庭で解決できないことは、地域社会やNPOが助ける。これらのレベルで解決できないときに初めて行政がかかわることになる」。
「補完性の原理」に立脚した「地域主権国家」の確立へ。
②「東アジア共同体」の創造
米中・・・アメリカの長期的衰退と中国の軍事的経済的大国化。
東アジアの二つの「本能的要請」・・・・a.アメリカの軍事力の有効な機能性の発揮、b.政治的経済的放恣の抑制。
日本の課題・・・
・「アジアに位置する国家としてのアイデンティティ」の重要性。
・東アジアの地域統合・・・「アジア地域通貨」による経済的統合⇒政治的統合⇒「東アジア共同体」創造。
「新憲法試案」(2005年)の「前文」・・・
私たちは、人間の尊厳を重んじ、平和と自由と民主主義の恵沢を全世界の人々とともに享受することを希求し、世界、とりわけアジア太平洋地域に恒久的で普遍的な経済社会協力及び集団的安全保障の制度が確立されることを念願し、不断の努力を続けることを誓う。
「友愛」の政治的展開による「格差の是正」とは?
鳩山は「友愛」の政治的展開として「格差の是正」も挙げました。
現在では一般的な政治的スローガンでしょう。
しかし、鳩山は「格差」の意味を全く説明していません。今日の「格差」言説では、それは「不平等」という意味と「隙間」、“gap”という意味があります。
「不平等」は規範的で解決すべきものとなります。
“gap”は人間界の分配の不均等に過ぎません。従ってそれは直ちに解決したり解消したりすべきものではないことになります。しかし、鳩山は「格差の是正」と「格差」を規範的に捉えて「是正」するべきものと考えました。
しかし、鳩山は「格差」とは「何の格差なのか」を明らかにしませんでした。従ってこの段階ではどのような「格差=不平等」をどのように「是正」するのかも不明でした。もし現在も鳩山が「格差の是正」を提案する場合、もっと具体的に提案する必要があるでしょう。
また、もし「格差=不平等」が資本主義が生み出す「深刻な社会不平等」を意味する場合、「格差の是正」は(ソ連的)「共産主義」のような「平等」に接近する可能性もあります。その「平等」とは、祖父である鳩山一郎が強く思想的影響を受けたカレルギーが「暴政」を招くとしたものです。
カレルギーはその「平等」とナチズム的全体主義の対立を「友愛」によって止揚しようとしました。そして、鳩山一郎もその思想を継承し、「友愛」を重視しました。そうすると「格差の是正」は内容次第では「友愛」が止揚しようとした「平等」に戻ることになります。そうすると「友愛」を掲げた意味が無くなります。自己否定になります。
現在、鳩山は、「格差の是正」をどう考えいるのでしょうか。それは鳩山的な「友愛」にとって大きな問題だと思います。
鳩山友紀夫の「友愛」論の今日的意義ー日本の代替的な選択肢の一つ?ー
鳩山の「友愛」の「現代化」・・・
①「補完性の原理」に立脚した「地域主権国家」の確立。
②「東アジア共同体」の創造。
鳩山の「友愛」論には共同体主義的要素が見られます。しかし、1980年代に北米で展開されたコミュニタリアニズムの直接的な影響は見られません。恐らくそれは鳩山一郎にも見られたような共同体主義でしょう。その思想的な源流もやはりカレルギーでしょうか。あるいは戦前日本の三木清的な「協同体主義」でしょうか。不明です。
鳩山は伝統的な共同体で「公共」領域を復興、創造しようとしました。恐らくその延長線上に「補完性の原理」に立脚した「地域主権国家」の確立もあるのでしょう。
また、鳩山は「東アジア共同体」をまず「アジア地域通貨」による経済統合、次に政治的統合として構想しました。鳩山は現在も、アジア各国の首脳と会談し、「東アジア共同体」を目指しています。
まだ二つともラフな構想ですが、現在でも日本の代替的な選択肢を一つを示しているかも知れません。
現在の現実の日韓関係等を考慮すれば、一つの「夢想」でしょうか。しかし、現在は「夢想」でも長期的に「現実」になる可能性も全否定できないかも知れません。
鳩山友紀夫の「友愛」論の課題
1993年、国連の世界人権宣言の人権の「普遍性」の確認。
市場経済のグローバル化へによるグローバル資本主義の登場。
1995年、「人権教育の為の国連の10年」のスタート。
1996年、鳩山友紀夫は「大衆」社会論(保守の評論家の西部邁等?)を批判しながら鳩山一郎の「友愛」を「個の自立の原理」、「他の共生の原理」と再定義しました。しかし、国連で「普遍性」が確認された人権には全く言及していません。従って人権と「友愛」の関係、整合性も不明です。
もし人権によって「個の自立の原理」と「他の共生の原理」が調整されない場合、両者は対立し衝突する可能性もあります。
恐らく人権を基礎にしない共同体主義は、「個人の自立」も「個人の尊厳」も否定するものになり兼ねません。特に冷戦後も人権が定着していない日本で共同体主義、特に伝統的な共同体主義を支持すると、「個人の否定」を帰結することは良く知られているでしょう。
しかし、鳩山の「友愛」論にも、一つの歯止めがあります。鳩山は、「自らの運命を自ら決定する権利」を、自己決定、選択責任の義務化の前提条件とします。恐らくこの前提条件が無ければ、「個の自立」、特に自己決定は不可能でしょう。そうすると「個の自立」は、「自らの運命を自ら決定する権利」が保障されない状態では、自己決定、選択責任の義務化を拒否出来るとも解釈出来ます。
自己決定は、人権と解釈することも出来ます。そうすると鳩山の「友愛」論、特に「個の自立の原理」は、他者の責任や義務を「自己責任」として転嫁されて、自らの意志に反して「運命」に翻弄されることを拒否する「個人の尊厳」を重視する人権の原理でもあると考えることも出来ます。
しかし、現実にある伝統的な共同体主義と人権が本当に両立するのかは、今後の検討課題にします。