はじめに
人間の評価基準は様々です。血統、財産、所得、能力、才能、業績、学歴や学校歴、職業、年齢、地位、性別、人種、民族、ナショナリティ、出身地、居住地、性格、美しさ、ルックス、3サイズ、身長、体重、声、臭いや香り、味、健康状態、趣味等々。挙げれば切りが無い程です。
しかし、正義の基礎としての人権の平等原理の一つは、メリトクラシー(能力原理)と結合した公正な機会均等原理です。教育機会等はこの原理に従って分配されることが、正義に適っていると評価される傾向があります。日本もそうです。
他方、しばしば人間の評価基準を巡って「差別」が問題になることがあります。しかし、「差別」が厳密に概念規定されていないと、そのような異議申し立てが事実認識としてあるいは評価として妥当なのか明らかではありません。
また、「差別」と異議申し立てする当事者が、他者を同じ様に「差別」する場合には「差別」には当たらないと主張する場合は、「差別」と「自己中心主義」あるいは「我儘」を区別出来ない可能性があります。
更に、特定の個人への批判が、個人の属すカテゴリー全体への「差別」として受け取られる場合もあります。
こうした場合、規範的判断は難しくなります。しかし、議論の余地はあるかも知れません。「差別」には立法化されているものもありますが、立法化されていない「差別」もあります。現段階では立法化されていなくても、将来立法化される「差別」もあります。「人種差別」や「女性差別」等の「差異の権利」侵害としての「差別」は、そうした事例の一種でしょう。
では「差別」に当たる人間の評価基準とは何でしょうか。ここでは学校での教育上の「差別」に限定して考えます。
正義と人間の評価基準
旧・新教育基本法でも次のように教育上の差別が禁止されています。
すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。
1962=1971年の博士論文で戦後教育学のリーダーの堀尾輝久東大名誉教授は、「解放原理」、「差別禁止原理」、「公正原理」ともされる「大衆国家=福祉国家」のメリトクラシー(能力原理)には、次の点で問題があると指摘しました。
①能力形成の諸条件が不平等なので、メリトクラシーは社会経済的不平等を再生産すること。
②メリトクラシーは、能力の“development”原理ではなく「社会的選抜原理」に堕落していること。
この問題認識の上で、堀尾教授は、「国民の教育権」と「教育における正義の原則」によって子どもの能力や人格や可能性の“development”を制限する社会経済的不平等の除去を目指しました。
しかし、次のように博士論文でも堀尾教授は、人間の価値や評価基準あるいはそれと正義との関係は、今後の検討課題としました。
人間の価値と評価基準の問題、とりわけ客観的価値尺度と主観的価値尺度の連関の問題は、この論文の枠を越えている。機会を改めたいと思う(堀尾輝久『現代教育の思想と構造—国民の教育権と教育の自由の確立のために—』岩波書店、1971年、p.267)。
血統原理による象徴天皇制
憲法第1条では、象徴天皇制について次のように規定されています。
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく。
ここから血統原理による象徴天皇制は、日本国民統合の原理でもあることが確認出来ます。
そうすると公式の国民統合原理は血統原理ということになります。また、公式の教育機会均等原理はメリトクラシーです。しかし、憲法では公式の職業機会均等原理は規定されていません。そこからメリトクラシー以外のコネクション原理等による機会の分配も行われることになります。そうすると日本には幾つかの原理が重層的に存在していることになります。
複数の原理の重層性と絡み合い(1)ー日本人のイエズス会士の皇太子妃観ー
日本では血統原理、メリトクラシー、財産原理等が重層的に存在し、絡み合っています。この絡み合いは、日本国民のイエズス会士の大学教師にも見られます。1975年にイエズス会は信仰と正義推進の一致を決定し、その後、貧しい人々を優先する選択も行った、最大級のカトリックの男子活動系修道会です。ここではその事例として、イエズス会士の高祖敏明上智学院理事長(2018年3月時点)を取り上げます。
まず高祖理事長の略歴を紹介します。1947年1月1日に広島県佐伯郡大柿町(現江田島市。瀬戸内海にある能美島の一部)出身。イエズス会系広島学院高等学校卒業後、1965年、上智大学外国語学部ドイツ語学科進学、1967年、除籍。1969年、同大学文学部哲学科再入学。その後、文学部教育学科教員に就任。1999年、上智学院理事長、2001年、カトリック教育学会会長就任。
2018年3月時点で、日本学術会議大学教育の質保証委員会委員、大学評価・学位授与機構評議員、私立大学連盟理事長会議幹事会委員長、経団連国際教育交流財団理事、経済同友会理事、 日本国際教育支援協会評議員、大学監査協会理事等も兼務。
http://librsh01.lib.sophia.ac.jp/Profiles/0035/0005822/profile.html(2018年3月11日時点ではアクセス出来なくなっています)
http://www.1350.jp/furusato/furu011.htm(同上)
http://www.sophia-humans.jp/teacher/koso_toshiaki.html(2018年3月12日にアクセスしました)
1992年9月、東京都のカトリック系聖心女子学院の講堂で「女子教育を考えるシンポジウム」が開催されました。高祖理事長はそこで基調講演を行い、冒頭で次のように述べました。
皇太子妃が2代続けて、カトリック学校に学んだ女性から選ばれた。マスコミ報道によれば、そのためカトリック教育に世間が改めて注目しているという。母校に連なる直接の関係者でなくても、カトリック学校にゆかりのある人の中には、まるで自分のことのように誇りに思い、喜びを感じている人も少なくないであろう(高祖敏明「カトリック女子教育のアイデンティティー―二重の混乱と最近の再構築の試みを中心に―」、『カトリック女子教育研究』第2号、カトリック女子教育研究所、1993年、p.1)。
二代の皇太子妃とは、現皇后(旧姓・正田美智子)と現皇太子妃雅子さんです。高祖理事長は「二代の皇太子妃=カトリック系学校の卒業生→誇り」と発想しました。高祖理事長は象徴天皇制(血統原理)によって国民統合されていることが確認出来ます。そうすると「二つのJ(キリストと日本)」を巡る葛藤は無いのかも知れません。
複数の原理の重層性と絡み合い(2)ー日本人のイエズス会士のミッション・スクール観ー
また、財産原理等との絡み合いも確認出来ます。高祖理事長は、続けて次のように述べました。
『ミッション・スクールのお嬢さん教育』(1985年10月)を著した山内継祐氏が興味深いエピソードを紹介している。「東京都内のある大学の大学祭の一イベントとして、『出身高校別・女子大生<高感度>コンテスト』が催された。」(中略)「学生たちの“人気投票”には意外な偏りが見られ……どの学部でも一位は私立女子高、それもミッション・スクールの出身者が占めていた」というのである。では、そこではいったい何がそれほど魅力的だったのであろうか。山内氏は主催者の学生の弁を引用しながら、次のような引用を加えている。「高感度ナンバー・ワンの女子大生たちはいずれも、日頃はおとなしくて目立たない、控え目なお嬢さんばかり。『どの娘もとりたてて美人というほどでもないのに、と最初は不思議だったんです。“表彰式”にも出たがらないほど控え目な娘ばかりで、式が流れちゃったくらいです。でも、彼女たちの本当の魅力は、そこにあったんですね。みんなしっかりした自分のモノサシを持っていて、ここぞというところでは、絶対に譲らない。そのくせ並の強情さとは一味違って、不思議な暖かさを感じさせるんです。彼女たちと話していると、気持ちが安らぐんですね。』」 ここにいうミッション・スクールとは、キリスト教系の諸学校を全体として指しているようにも受け取れる。しかし、著者自身が、「イベント主催者の感想は、ミッション・スクールのお嬢さん教育の特色をすばりと言い当てている」とし、これをカトリック学校と言い換えて言葉を続けている。「それらの特色をわがものとしたお譲さんたちが若者たちの圧倒的支持を受けているのだとすれば、カトリック学校で播かれた種子は立派に実を結んでいることになるだろう」と。こうして、いまからすでに8年前、わが国で繰り広げられてきたカトリック女子教育に注目し、このように暖かく紹介したジャーナリストがいたのである(同上書、pp.1~2)。
高祖理事長は、曖昧さがある「お嬢さん」というタームを厳密には定義していません。しかし、一般的には血統や財産等の指標でグルーピングされた集団に属す女性を意味すると考えられます。しかし、カトリック系のミッション・スクールには偏差値の高い進学校もあります。特に大都市部に集中しています。そうするとその場合は、血統原理と財産原理とメリトクラシーが重層的に絡まり合っていることになります。
人間の評価基準と「差別」
公正な教育機会均等原理に反する場合、「差別」と評価されます。恐らく司法判断でもそうでしょう。では人間の評価基準はどうでしょうか。公教育でメリトクラシー以外で教育上の区別をする場合、「差別」と評価される可能性はあります。例えば、教師が学生を能力以外の血統や財産等で評価する場合、「差別」に当たる可能性はあります。日本の場合、私立学校も公教育を構成するので、例外扱いにはならない可能性があります。
もしミッション・スクール等の私立学校で、生徒や学生が血統や財産等で評価される場合、「差別」に当たる可能性があります。このような「差別」が学校に蔓延している場合、高い能力を形成しても「差別」から「解放」されません。そうすると「差別」から「解放」されるには、編入や休学や退学等によって学校の外に出るしか選択肢が無くなります。こうした「差別」は、自生的秩序への順応により人間が身に付けた「ハビトゥス(フランスの社会学者ピエール・ブルデュー)」の問題でもあります。
おわりに
人間の評価基準は多様です。現実にある学校という文脈に限定した場合、「差別」とは血統や親の財産等、本人の努力では変更が難しい基準で人間を評価することです。しかし、教師や生徒・学生も含めて学校と関係する日本のヒト界には、この種の「差別」を「劣等感」や「コンプレックス」と誤認する傾向も観察されます。尤もその誤認を克服しても、能力による区別が「差別」か否かという問題が残ります。この問題は論争的です。従って今回はこの問題は取り上げませんでした。
今回は能力以外の人間の評価、特に処遇を伴う人間の評価を「差別」と暫定的に捉えました。勿論、この捉え方も議論の余地があります。その点も踏まえた上で、そうした「差別」は閉鎖性を持つ学校の中での複数の人間の共生や共存を困難にし、「公共性」や「公共の福祉」を破壊する可能性があると言えると思います。そうするとそうした「差別」を解消し、「公共性」や「公共の福祉」を回復させる為には、学校のメンバーのハビトゥスを変容させる必要もあります。しかし、もしメンバーのハビトゥスの変容が不可能に近い場合、公/公共/私の三領域を明確に区分し、生き分ける必要もあると思います。それも不可能な場合、重要になるのはイギリスの社会学者アンソニー・ギデンズも論じているように社会的距離かも知れません。