はじめに
世界人権宣言は明確な「人間」観を提示し、「人間」と非「人間」も明確にしました。非「人間」は、「野蛮人」や「動物」とも言えます。
しかし、日本人には「人間」になれない者も少なくありませんでした。例えば、日本人のカトリックです。
彼等は色々な問題も発生させます。
世界人権宣言と普遍主義的な「人間」観
1948年、国連は国連憲章で重視した人権の具体的なリストを世界人権宣言として採択しました。
同宣言では、「普遍」の主体としての「人間(human beings)」は、「理性(reason)」と「良心(conscience)」と「友愛の精神(a spirit of brotherhood)」を持つ存在とされました。
これは普遍主義的な「人間」観と言えます。
「教育( education)」は、理性と良心(あるいは美的感覚)を持つ「人格の全的発展( the full development of the human personality )」と人権や基本的自由のリスペクトを強化するものとされ、「初等教育」は義務制とされました。
義務教育は「人間」化の強制でした。
第二バチカン公会議と「人間」
1960年代のバチカンの第二バチカン公会議は、「ヨーロッパ人権文明」への適応でもありました。
ヨハネ23世は『パーチェム・イン・テリス』で世界人権宣言にもコミットしました。
しかし、日本の場合、信者は殆ど「ヨーロッパ人権文明」に適応出来ませんでした。
1980年から1982年に刊行された『キリスト教史』では、次のように第二バチカン公会議の精神の啓蒙は不十分で混乱をもたらしたと指摘されました。
このように目に見える一大変化が日本の教会に見られるようになったが、その改善ないし改革、あるいは新たな機関の設置の理由および目的の啓蒙とその育成は不十分であったといえよう。なぜ改革されなければならないのかということが十分に司牧者にも納得されないまま現実に変化する実践に移ったため、その内容の真の理解には相当な時間を要し、また信徒のあいだでもの混乱も大きかった。一度試験的に試みられる事柄は、殆ど改善の余地のないほど習慣になってしまう。この説明の不十分さは、現在までその余韻を残している(ヨセフ・ハイヤール他[上智大学中世思想研究所翻訳/監訳]『キリスト教史』第11巻(現代に生きる教会)平凡社、1997年、P.420)。
また、ある信者が証言するように1997年段階でもその「余韻」は残っていました。
私たちの小教区には「ロザリオ、焼肉、バザー」のムードがあります。若い人も教会に来ますが、この三つを発展させていこうというムードしかない。私が公会議の文書などをもっていると、教会の中で変人扱いされてしまう(カトリック東京教区生涯養成委員会編『講演集 第二バチカン公会議と私たちが歩む道』サンパウロ、1998年、p.56)。
パリ宣教会のオリビエ・シェガレは、日本人のカトリックの人権意識を次のように指摘しています。
人権などの近代的価値観がヨーロッパの人々ほどに日本の一般の人々の意識になかったと思います。それを促進しようとしていた「進歩的知識人」といわれる人々は、日本の大衆、社会から遊離し、余り影響力がなかった。ですから、公会議が提示した近代的な価値観を受け入れる社会的基盤があまりなかったように思うのです(オリビエ・シェガレ「現代社会の中の教会・公会議の示した姿勢とその後」、同上書、p.44)。
そうすると日本人のカトリックは、実質的に戦前のカトリックに止まっています。
そすると日本国憲法にも対応していません。
その結果、日本のカトリックは、日本国憲法にもバチカンの近代基準からも外れいることになります。
そうすると彼等は、「人間」にならず「野蛮人」や「動物」に止まった可能性があります。
日本人のカトリックと非「人間」
イエズス会士の高祖敏明は、カトリック系学校の理念と現実の不一致の為にアイデンティティ・クライシスに陥りました。
(日本のカトリック系学校が――引用者による注)実際に「富める者のための学校」となっている以上、第2ヴァティカン公会議をとおして基本姿勢の転換を図った現代の教会の方針にそぐわない。なぜなら、この姿勢転換とは、福音を「時のしるし」のもとに読み直して、「貧しい人を優先させる」という方針に切り替えたものだから、と攻めたてられる。こうして、福音にもとづいて始められたはずの教育使徒職が福音の名において批判され非難されるという、悲しくゆゆしい事態に陥った(高祖敏明「カトリック学校の役割の再発見―二一世紀に向けての魅力ある学校づくり―」、『カトリック教育研究』第12号、1995年、p.6)。
カトリックの渡部昇一は、2001年に「不平等主義」を提唱しました。
たとえば藤原紀香や松嶋奈々子は、「美しい」という理由によって何億円もの収入を稼いでいる。普通の女性、あるいは美しくない女性が、「こんな不平等なことがあっていいのか」と抗議したところで、これは仕方がない。もし「日本の女性をみんな平等にせよ」と唱えたとしても、日本の女性をすべて美女にすることは不可能である。しかし、日本の女性をすべて不美人にすることは、じつは簡単である。「女の子が生まれたら、三日以内に鼻に焼きゴテを当てるべし」という法律をつくればよいのである。これで日本中の女性はみんな平等に不美人になる。みんな美人にはできないが、みんな不美人にすることはできる。極端な例ではあるが、平等主義とはこういうものである。(中略)「平等」とは「一番悪いほうに合わせる」以外には実現し得ない。そのことを日本人ははっきりと認識すべきである。ほんとうに貧しい人に対しては当然、社会政策として最低限の救いがあってよい。ただし、その最低限は「飢えず、凍えず、雨露に当たらず、痛みをなくする程度の医療」であって、それ以上の面倒を国家が見る必要はない。「そこで諦める人はそのまま人生を送って下さい。しばらく羽を休めてから立ち上がって仕事に入る人はそれもよろしい」とするのが望ましい姿であろう。それ以上を与えれば、与えられた人間は必ず堕落する。本来平等ではあり得ないものを平等にしようというのは土台無茶な話なのである(渡部昇一『不平等主義のすすめ―二十世紀の呪縛を超えて―』PHP研究所、2001年pp.45~47)。
「ヨーロッパ人権文明」に適応しない日本人のカトリックの非「人間」が明確になっています。
日本のカトリック系学校では、こういう非「人間」を大学教授にしたり、高い社会的地位を与えていました。
勿論、大学教授にしても「人間」ではないので、「人間」関係を前提にした教育関係や師弟関係は成立しません。
主客や真偽の区別が理性的ではなく恣意的、主観的、感情的に行われます。
それは啓蒙や理性の光が届かない、カトリックが重視する愛も無い、憎しみ等の否定的な感情や陰湿さが支配する闇の世界です。
最悪の場合、彼等は学生の“personality”を破壊し人生を滅茶苦茶にし台無しにしてしまいます。
非「人間」の生き方は、本当に非「人間的」です。
「教養」と非「人間」
「野蛮人」や「動物」等の非「人間」は、「教養」や「文明」、特に「ヨーロッパ人権文明」を嫌がる傾向があります。
自分達が「人間」ではないことが明らかになってしまうからです。
しかし、非「人間」の指摘は、日本ではタブーの一つです。
タブーに触れると「差別」や「偏見」だと騒ぎ始める傾向があります。
彼等は盛んにアイデンティティや自尊感情やプライドを重視します。
しかも、「日本人」としてのアイデンティティや自尊感情やプライドとして過度に拡大して騒ぎ、批判する相手の“personality”攻撃を始める傾向も見られます。
しかし、非「人間」でも「教養」を支持するかに見える場合もあります。
例えば、イエズス会士の高祖敏明聖心女子大学学長等です。彼は言います。
聖心女子大学は日本で最初の新制女子大学の一つとして誕生して以来、「真の教養人」を育てる「リベラル・アーツ教育」を変わることなく貫いてきました。 現代は、それぞれの価値観が尊重される時代であるとともに変化のスピードが加速する激動の時代でもあります。ほんの少し前までの常識が通じなくなったり、日々塗りかえられたりしています。
今こそ必要とされるのは、一人ひとりをかけがえのない存在として尊重する人間観、幅広い知識と柔軟な思考力・判断力をもって現代の課題を洞察し、その解決に向けて社会に貢献する「真の教養」です。聖心女子大学は「現代教養学部」という学部名のもと、これまでの歴史と伝統を大切にしつつ、新たなカリキュラム・新たなプログラムをスタートさせています。
新たな知の世界を切り拓き、豊かな創造力を養い、自らの考えを自らの言葉で発信し、行動する知性を磨いていく。あなたの一生を支える、唯一無二の学びがここからはじまります。
「教養」は高祖自身の否定にならないでしょうか。
そうならないような自分に都合よく「教養」を再定義して、学生に教えるということでしょうか。
メリトクラシーでも無いカトリックの非「人間」
メリトクラシー(能力原理)も色々と問題があり克服が目指されて来ました。
しかし、カトリックの非「人間」の中には、彼等自身がどのような生まれなのか全く分からないのに、メリトクラシーでも無い者もいます。
1992年、東京都の聖心会系聖心女子学院で「女子教育を考えるシンポジウム」が開催され、高祖敏明はその基調講演で次のように述べました。
皇太子妃が2代続けて、カトリック学校に学んだ女性から選ばれた。マスコミ報道によれば、そのためカトリック教育に世間が改めて注目しているという。母校に連なる直接の関係者でなくても、カトリック学校にゆかりのある人の中には、まるで自分のことのように誇りに思い、喜びを感じている人も少なくないであろう(高祖敏明「カトリック学校の役割の再発見―二一世紀に向けての魅力ある学校づくり―」、『カトリック教育研究』第12号、1995年、p.1)。
日本人のカトリックの非「人間」の不可思議な行動
日本人のカトリックの非「人間」には、不可思議な行動をとる者もいます。
高祖敏明は、カトリック系学校の理念と現実の不一致によるアイデンティティ・クライシスを、1996年、「平和教育」、「環境教育」、「開発教育」によって克服しようとしました。
こうしてカトリック学校がそれぞれの置かれた場と状況のなかで、真に「福音の光を伝える」ものとなるべく、平和教育、開発教育、環境教育などの今日的課題をも視野に収めたアイデンティティの確立とその具体化に取り組んでいるのが現状である(高祖敏明「カトリック学校」の項、『新カトリック大事典』第Ⅰ巻、研究社、1996年)。
1992年、高祖は上智大学文学部教育学科の3年生のゼミで、沖縄県に平和学習に連れて行き、現地のカトリック系学校にも行かせたりしました。
しかし、ゼミの内容とは全く関係無く、なぜいきなり平和学習なのかも全く説明しませんでした。
極めて不可思議な平和学習でした。
翌年の3年生のゼミでも、高祖は学生をタイに連れて行きました。
どこまでも非「人間」は、自己中心的、自己都合でしか物事を考えないことが分かります。
おわりに
非「人間」を大学教授等の教育者にしたり、高い社会的地位につけることは問題です。
彼等は人権に反対したり、人権を誤って理解したり普及させたりして、日本社会での「人間」化を難しくする可能性もあります。
これは日本社会の大きな問題になります。
対処法としては、「人間」化と寛容があります。
「人間」化は、主客や虚偽、真偽を自律的に識別するようにすることです。
主客未分で理性が感情に従属する傾向を変革します。
寛容は「人間」にも色々あるというストーリーにすることです。
しかし、それはストーリーに過ぎず「真理」とは言えないかも知れません。