はじめに
今なぜ新渡戸稲造(1862~1933)か。
新渡戸は台湾総督府役人、京都帝国大学教授、第一高等学校校長、東京帝国大学教授、日米交換教授、東京女子大学初代学長、国際連盟事務局次長、貴族院議員等を歴任した人物です。
新渡戸は、①知識人の戦争責任の問題、②「戦後民主主義教育」の歴史的正統性の問題を考える上で重要だと思います。
また、自民党の安倍晋三政権の「戦後レジュームからの脱却」という政治的主張の妥当性を考える上でも、無視出来ないと思います。
なお敬称は省略します。
大正デモクラシーから総力戦の全体主義的体制へ
一九二〇年代から四〇年代初めにかけて、多くの自由主義者・民主主義者・社会主義者が、総力戦の全体主義的体制へとなだれこんだ。その思想的背景には、人格の自己実現という積極的自由を上位の人格としての国家・国民への献身と同一視したり、民主主義の自由主義に対する優位を説く理論があった(松沢弘陽「自由主義論」、『岩波講座 日本通史』第18巻(近代3)岩波書店、1994年、p.276)。
1945年のポツダム宣言ー「民主主義的傾向」の復活強化ー
日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ。
1955年の自民党の結党ー憲法の「自主的改正」を目指すー
米ソ冷戦期の1955年、日本民主党の幹事長で安倍晋三首相の祖父である岸信介は、自由党との保守合同を推進し、自由民主党を結党し初代幹事長になった。これにより自民党を与党、日本社会党を野党第一党とする55年体制が成立しました。
それは「日本型冷戦構造」と言えます。
同年、自民党は「政綱」で憲法の「自主的改正」を目指しました。
平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う(自由民主党「政綱」)。
自民党は政治的混迷の「一半の原因」は、日本を弱体化させる為の「敗戦の初期の占領政策の過誤」にあったと考えていました。
国内の現状を見るに、祖国愛と自主独立の精神は失われ、政治は昏迷を続け、経済は自立になお遠く、民生は不安の域を脱せず、独立体制は未だ十分整わず、加えて独裁を目ざす階級闘争は益々熾烈となりつつある。
思うに、ここに至った一半の原因は、敗戦の初期の占領政策の過誤にある。占領下強調された民主主義、自由主義は新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべきであるが、初期の占領政策の方向が、主としてわが国の弱体化に置かれていたため、憲法を始め教育制度その他の諸制度の改革に当り、不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を過度に分裂弱化させたものが少なくない。この間隙が新たなる国際情勢の変化と相まち、共産主義及び階級社会主義勢力の乗ずるところとなり、その急激な台頭を許すに至ったのである(自由民主党「党の使命」)。
1956年の鶴見俊輔の「知識人の戦争責任」論
日本の保守勢力の中にも、自由主義勢力の中にも、十五年戦争の批判についてもおなじ不変化能力をもつものが出なかったというところに、日本独自の歴史的条件がある。共産党が日本の思想史にしめる位置は、共産党が他の国々の思想史にしめる位置とちがう(鶴見俊輔「知識人の戦争責任」、『中央公論』、1956年1月[同『折衷主義の立場』筑摩書房、1961年、p.83])。
鶴見が言う「不変化能力」とは、「環境の刻々の変化にまどわされずに大筋をつらぬく能力」、「大局的な目標にたいするかわらざる献身の能力」です。
1958年のアイザイア・バーリン「二つの自由概念」
1958年、アイザイア・バーリンはオックスフォード大学教授就任講演「二つの自由概念」を行いました。その後、この講演は大きな影響を与えました。
バーリンは「自由」を「消極的自由」と「積極的自由」に分節化しました。
「消極的自由」とは「干渉の不在」、「積極的自由」とは「自己支配」を意味します。
バーリンは、「積極的自由」が社会や国家の理想にされると、人々の抑圧が正当化され、エリート支配や独裁政治が生み出されると考えました。
後述する鶴見の新渡戸批判は、バーリンの「積極的自由」批判と呼応するものがあると思います。
しかし、鶴見がバーリンの「二つの自由」を読んでいたかは不明です。
新渡戸の弟子の南原繁の弟子に当たる福田歓一は、1966年でも「著者バーリンがほとんどわが国の読者に知られていない」と述べています(福田歓一「あとがき」、アイザイア・バーリン[福田他訳]『自由論』みすず書房、1971年、p.513)。
1960年の新渡戸稲造研究の本格化
新渡戸の伝記は存在しました。例えば、石井満『新渡戸稲造伝』(関谷書店、1934年)等。
しかし、本格的な新渡戸研究は、1960年に鶴見俊輔と武田清子によって開始されました。
二人とも<思想の科学>の同人です。
鶴見の父親は、新渡戸の愛弟子だった祐輔です。台湾総督府時代の新渡戸の上司だった後藤新平伯爵は、鶴見の祖父です。
武田は新渡戸と同じプロテスタントです。
同人には、南原の弟子の丸山眞男もいました。
しかし、後述するように二人の新渡戸評価は正反対のものでした。
しかも、二人の評価は現在の新渡戸評価もある程度規定していると思います。
鶴見俊輔説―新渡戸稲造=穏健な超国家主義、軍国主義、全体主義の源流―
支配者・被支配者が一体となって和合しつつ国家の勢力を世界諸国に伍して進めていく。この究極目標のために役に立つようにあらゆる技術・思想が折衷されていくことが新渡戸の思想だった(鶴見俊輔「日本の折衷主義―新渡戸稲造論―」、『近代日本思想史講座』第3巻(発想の諸様式)筑摩書房、1960年5月、p.210)。
日本の国民性に根ざしたこの方法を主とするかぎり、この方法にそうてうけいれられた自由主義の原則は分裂をつねにさける和解本位の国家的自由主義となり、キリスト教は政府の政策をやややさしく手ごころをくわえさせる穏健な国家主義となる(同上書、p.208)。
国家の勢力の伸長のために、たがいに和合する努力しつつあるグループが、一高校長・東大教授であった新渡戸を中心として日本の中堅官僚の中にできた。この人々は、まじめかつおだやかな仕方で国家の力をのばしていこうとし、ことに昭和十二年の日支事変、昭和十六年の大東亜戦争につきいるにさいして冒険が極端なって来たという不安をもったが、しかし、国家としての和をくずすことにしのびず、大勢のおもむくままに、大東亜戦争の敗北まで、戦争という国家的事業をおしすすめていくのであった(p.210)。
昭和時代の軍国主義の支配にたいして、かつて新渡戸門下だった官僚・政治家・実業家・教育者・学者たちのとった道は、偽装転向意識に支えられながら、なしくずしに軍国主義にたいしてゆずっていくという道をとった(同上書、p.215)。
こうした新渡戸の自由主義・折衷主義の思想の延長線上には、新渡戸ゆずりのおだやかな趣味をそのままひきつぎながら、穏健な超国家主義、軍国主義、全体主義が生まれることになる(同上書、p.211)。
わたしはここで、大東亜戦争のはじまってから数日たってからのある夜、当時アメリカ留学生仲間であった外務省官吏と話したことを思いだす。負けるにきまっている(と彼も思い私も思っている)この戦争をはじめたことのおろかしさについて改めて口に出していったところ、彼は急にけしきばんで、「それではどうしたらよかったと言うのだ。他に方法があったというのか」ときいた(同上書、p.211)。
武田清子説ー新渡戸稲造=戦後民主主義教育の源流の一つー
戦後の「教育基本法」が占領軍によって押しつけられたものであるとの理由によって、池田内閣の文部大臣荒木万寿夫氏は教育基本法の改正を主張しているが、教育基本法の確立されたプロセスをしらべる時、それは明らかに日本人によって構成された教育刷新委員会によって、主体的に起草され、検討され、総司令部の干渉なしに国会に提出されたものであった。そして、教育勅語に代るこの民主々義的な教育方針を明示する教育基本法の成立のために努力した人たちが、いわゆるオールド・リベラルの人々であり、しかも、その当時の文部大臣、教育刷新委員会の委員、特に起草にあたった第一特別委員会委員、(ママ)、その協力者の中に、新渡戸稲造の弟子たち、彼の校長時代の一高の学生、東大教授時代の学生が多いことに驚くのである。それ例をあげれば、田中耕太郎(当時の文部大臣)、山崎匡輔(文部次官)、森戸辰男(教育刷新委員会委員、第一特別委員会委員、翌年の文部大臣)、河井道子(同上委員)、天野貞佑☆(同上委員)、高木八尺、南原繁、安倍能成、和辻哲郎、前田多門、長与善郎等の人々である。更に、鳩山内閣の文部大臣諸瀬一郎氏が教育基本法の改正を提唱した時に、烈しい反論を行い、教育基本法の擁護に努めた当時の東京大学の矢内原(忠――引用者による注)雄総長も勿論、はじめにふれたように新渡戸を尊敬してやまぬ弟子であることは云うまでもない(武田清子「教育者としての新渡戸稲造―新渡戸稲造の研究(その1)―」、『国際基督教大学学報Ⅰ-A 教育研究』第7号、1960年12月、p.49)。
戦後の民主々義教育に方向性を示した教育基本法の思想的、精神的背景は、最近の文部大臣たちが主張するように占領政策によって外から押し付けられたものではなく、むしろ、内在的に、日本の近代思想史、狭く限定すれば、教育思想史の中に見出すことが出来ると思えるのであり、その重要な背景の一つとして新渡戸稲造が浮き彫りにされて来るのである(同上書、同頁)。
冷戦後も武田清子は評価を変えず
敗戦後の日本における民主主義教育の主体的担い手を用意したものを問うていくとき、そこに教育者新渡戸稲造を発見します(武田清子『戦後デモクラシーの源流』岩波書店、1995年、p.91)。
私は、戦後民主主義教育の源流の一つが新渡戸稲造に見出せると思います(同上書、同頁)。
自民党の日本国憲法改正草案の公表ー「前近代への回帰」(樋口陽一)ー
2006年、第一次安倍晋三政権は、教育基本法を改正しました。
民主党政権期の2012年、自民党は憲法改正草案を公表しました。
しかし、憲法学者の樋口陽一は、「押し付け憲法」説を批判しつつ、同草案を「前近代への回帰」と評価しました。
明治の政治家たちは、現在の明治憲法郷愁派の議員たちにくらべて、はるかに立派でした。反対すべき問題が起これば、きちんと反対し、議論している。(中略)小林先生がおっしゃる改憲マニアの議員たちは「明治に戻りたい」と言っているのだとしたら、一九三五年以前の日本近代史を侮辱するもの、むしろ、それこそ自虐的なのですね。(中略)連合国側は、ファシズム期以前の日本に民主主義的な流れがあったことをきちんと言っていたということです。(中略)そういう「民主主義的傾向」の歴史を、アメリカのほうは、理解していた。だから、日本国憲法を「押しつけ憲法」だと簡単に言ってはいけない、というのが私の整理の仕方です。(中略)自民党改正草案は、近代法からの逸脱だということです。民主主義的傾向の芽生えのあった明治期への回帰どころか、前近代への回帰です(樋口陽一+小林節『「憲法改正」の真実』集英社新書、2016年、pp.61~63)。
自民党改憲派のファシズム期への郷愁
本来改憲派ですが、2016年段階では護憲派の立場に立つ憲法者の小林節によれば、自民党の明治憲法郷愁派は、1935年から1945年までのファシズム期を「日本がもっとも素晴らしかった時期」と考えています。
商工大臣や軍需次官までやった岸信介は、A級戦犯容疑で囚われながら結果的には無罪放免で、総理大臣にまで上りつめました。岸としては、国を立て直すために自分が生き延びなければならないのだとみずら説得させたのでしょう。しかしながら、敵国に屈することで自分を守ったという心理的な屈折がなかったはずはありません。その屈折が「押しつけられた」憲法を廃棄するという執念につながっているのではないか。自主憲法制定国民会議の会長を務めるなど早くから改憲の旗振り役だったのは、その屈折から来ているのではないかと推測できるのです。
三〇代だった私はそうした人たちが催す勉強会に顔を出していたわけです。岸本人とも一度だけですが、会ったことがあります。
そうしたつき合いのなかで知ったのは彼らの本音です。
彼らの共通した思いは、明治維新以降、日本がもっとも素晴らしかった時期は、国家が一丸になった、終戦までの10年ほどのあいだだった、ということなのです。普通の感覚で言えば、この時代こそがファシズム期なんですがね(同上書、p.32)。
おわりに
今なぜ新渡戸か。
まず知識人の戦争責任の問題があります。
次に「戦後民主主義教育」の歴史的正統性の問題があります。
これは安倍晋三政権の「戦後レジームからの脱却」という政治的主張の妥当性の問題でもあります。
しかし、歴史的正統性の問題に決着を付けずに、第一次安倍晋三政権は教育基本法を改正しました。
そうすると再改正の問題も含むかも知れません。