マルティン・ブーバー『我と汝』の現代的示唆

はじめに

18世紀をピークにする理性を重視する“enlightenment”の世紀は、「光の世紀」でもありました。しかし、“enlightenment”は差別も生みました。この両義性の矛盾は、ナチズム等の全体主義で最大化します。

しかし、最近では、“enlightenment”にも様々なバリエーションが存在したことも明らかになっています(例えば、『岩波講座 政治哲学2』(啓蒙・改革・革命)岩波書店、2014年等)。ユダヤ教の“enlightenment”もありました。

「20世紀の預言者」とも呼ばれるユダヤ人のマルティン・ブーバーは、主著『我と汝』(1923年)で“enlightenment”と「啓示」のバランスを取り直そうとしました。

ここではブーバーの『我と汝』の第1部の内容を紹介した上で現代的示唆を少し考えます。

敬称は省略します。

マルティン・ブーバー(1878~1965)とは誰か?

ユダヤ人の宗教哲学者・社会思想家・聖書学者・教育家。ウィーンに生まれ、青年時代から反律法的なユダヤ神秘主義<ハシディズム>に感化を受け、精神的シオニズムに共鳴。主にドイツの大学でユダヤ哲学を講じ、聖書の独訳作業にも貢献した。ナチス政権誕生後パレスチナに移住(1938年)。キブツ運動を支持し、ヘブライ大学で社会哲学を講じた。ヒトラーやスターリン没落後、第二次大戦後の文化的・共同体的破滅状況の中で、宗教(精神的革命)と社会主義の結合した共同体建設を模索し、その原理に人間の根源的<対話>を掲げた(宮本久雄「ブーバー」、『岩波哲学・思想事典』岩波書店、1998年)。

ブーバーの“enlightenment”から「啓示」へ旋廻―ハシディズムの影響ー

ブーバーも18世紀後半に東欧で始まったユダヤ教の神秘主義的な革新運動であるハシディズムの影響を受け、“enlightenment”から「啓示」へ旋廻しました。社会哲学者の徳永恂によれば、「ハシディズムの影響は、初期のフロム等にも認めることが出来る」と言う(徳永恂「ハシディズム」、前掲『岩波哲学・思想事典』)。

しかし、ブーバーは青年時代には既に感化されていたとされるので、フランクフルト学派第一世代のエーリッヒ・フロムに先行し、「啓示」への旋廻も自由ユダヤ学院の創設者ローゼンツヴァイクに先行したと考えられます。

しかし、ローゼンツヴァイクと比較するとブーバーの方が理性を中心にした“enlightenment”に止まっているという印象があります。しかし、両者を比較研究しないと断定は出来ません。

最初、伝統的なユダヤ教はハシディズムを破門にしましたが、徐々に認めるようになりました。『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2002年)によれば、ハシディズムの教えは二つあります。

①万物は神の中に存在すること。

②喜びは神とともにあることの証であること(「恍惚(ecstacy)」の重視)。

日本語の「恍惚」には、二つの意味があります。

①「物事に心を奪われて、うっととりするさま」。

②「ぼんやりとしてはっきりしないさま」。

1923年頃の“ecstacy”の意味は分かりません。因みに1980年代の“ecstacy”の意味は、「感情が異常に高揚した状態」、「喜悦」、「有頂天」、「逆上」、「自失」、「忘我」、「法悦」、「恍惚」、「脱魂」、「失神状態」です(『リーダーズ英和辞典』研究社、1984年)。

1923年頃も同じような意味がある場合、ハシディズムは、理性を中心にした“enlightenment”と対立したことになります。

徳永によれは、ハシディズムの影響を受けた東欧のユダヤ人は、「ナチスの絶滅作戦の最大の犠牲者」であり、「今日では同地域には点々と祈禱所が残されてはいても、ほとんど廃墟と化して」いるようです(徳永恂「ハシディズム」、前掲『岩波哲学・思想事典』)。

ブーバー『我と汝』第Ⅰ部(1923年)の世界

ブーバーは人間をアプリオリに関係的存在だと考えました。ブーバーは関係的存在形態は二つあると考えました。

一つは<我と汝>です。<我と汝>は他と全存在を賭けて全人格的に関わる世界です。

もう一つは、<我とそれ>です。<我とそれ>は、対象を客観化する世界です。

その典型は近代科学です。

<我とそれ>にはメリットとデメリットがあります。メリットは科学の発展をもたらし、人類社会の発展に貢献する側面があります。デメリットは夏目漱石が言う「理性地獄」の世界です。「理性地獄」から脱却するには、<我と汝>が必要になります。

ブーバーは、<我とそれ>を「永遠の蛹」、<我と汝>を「永遠の蝶」と詩的に喩えているように、後者を重視しました。しかし、ブーバーは前者を後者に常に完全に解消することは出来ないと考えました。

(この世の)全ての<汝>は本質上物となりあるいは物とならなければならないように定まっている。客観的表現をとっていうならば、この世の全ての物は、物となる以前か以後に、<汝>として<我>に現れるのである(中略)<それ>は永遠の蛹であり、<汝>は永遠の蝶である(マルティン・ブーバー[植田重雄訳]『我と汝・対話』岩波文庫、1979年、p.27)。

そういう意味では理性を中心にした“enlightenment”の世界に止まることになります。

それはブーバーは、「現存は人を喰い尽くしてしまうであろう」と考え「危険」と認識したからです。

しかし、ブーバーは第1部の結論として<我と汝>を全く生きない者は「真の人間」ではないと次のように断言します。

だが、真理のもつあらゆる厳粛さを込めて、あなたに次のように言おう。人間は<それ>なくしては生きることは出来ない。しかし、<それ>のみで生きる者は、真の人間ではない(同上書、p.47)

全て真の生は出合いである

恵みによって<汝>が私と出合う(中略)関係とは選ばれることであり、選ぶことである。能動と受動とは一つになる。(中略)根源語<我と汝>は、ただ全存在をもって語り得るのみである。(中略)全て真の生は出合いである(同上書、p.19)。

<汝>の光の中で生きる

すべて他の一切のものは、<汝>の光の中で生きるのである(中略)祈りは時間の中に無く、祈りの中に時間がある。この関係を逆にする人は、現実を見捨てることになる(同上書、pp.15~16)。

<我と汝>の<間>としての愛

感情が愛をつくり出すのではない(中略)感情は<所有されるもの>であり、愛は生じるものである。感情は人間の中に宿るが、人間は愛の中に住む。これは比喩ではなく、現実である。(中略)愛は<我と汝>の<間>にある(同上書、p.21)。

<汝>に対する<我>の責任としての愛

愛はこの世界に働きかけるものである。愛の中にある人、愛の中に見る人は、人間を混沌から正しい活動へ解放する。(中略)独占性が驚くほど、幾度も蘇り、その結果、愛の中に生きる人は、活動し、助け、癒し、教え、高め、救うことが出来る。愛は<汝>に対する<我>の責任である(同上書、pp.23~24)。

<我と汝>は因果律を超越する

<汝>の天が私の広がっている限り、因果律の風は、私の踵に吹き止み、宿命の渦も渦巻くことはない。私が<汝>と呼ぶ人間を、私は経験することはない。ただ私は彼と聖なる<我と汝>の関係に立つのである。(中略)経験とは<汝から遠ざかること>である(同上書、p.16)。

因果律の超越は、鶴見が発見した南方曼荼羅の縁起の世界と重なります。どちらが先行したのでしょうか。

永遠の<汝>は神か?

(<我>は関係の三領域で)現存しながら生成する存在者を通して、永遠の<汝>の裳裾をかいま見、それぞれの領域から、永遠の<汝>の息吹を感じ取り、各領域のあり方に基づき、それぞれの<汝>において、永遠の<汝>に語りかけるのである(同上書、p.12)。

おわりに

最後にブーバーの『我と汝』の現代的示唆について簡単に触れます。

筆者は日本を念頭にした場合、現代的示唆は少なくとも二点あると思います。

第一に、理性を中心にした“enlightenment”のデメリットを解決する意義です。“enlightenment”のメリットを否定せず、デメリットを「人間」観の転換により解決するアプローチは現代でも見るべき価値があると思います。

第二に、「大衆国家」のメリトクラシーによって破壊された「人間」を救済する意義です。

なぜ「大衆国家=福祉国家」(松下圭一)のメリトクラシー(能力原理)は、「人間」(理性、良心、友愛の精神を持つヒト)を破壊するのでしょうか。「大衆国家」における教育機会均等の機能に関する堀尾輝久の教育思想史的分析を手掛かりに考えます。

メリトクラシーは「人間(理性、良心、友愛の精神)」(世界人権宣言第1条)を破壊するリスクがあります。能力形成の諸条件が不平等な状態での競争は、友愛の精神等を破壊する傾向があります。<我と汝>は破壊された「人間」を救済する効果が期待出来ると思います。

<付記>

尚、筆者は2019年5月に政治思想学会研究大会で「「大衆国家」のメリトクラシー(能力原理)の苦悩から救済出来るか?―A.センのケイパビリティ・アプローチの熟議民主主義的展開―」というタイトルで報告しました。

http://www.jcspt.jp/events/index.html

「大衆国家」のメリトクラシーのデメリットからの救済策として、退けるべき何の不平等のリストを部分的にでも合意する為の熟議による「公共的討議」を提示しました。

報告はまだ公表していません。もう少し時間を下さい。しかし、報告資料は政治思想学会に入会すれば、インターネットで閲覧出来ます。

http://www.jcspt.jp/contact/index.html

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