セルフ・ラブ

はじめに

日本では所謂「一流大学」の学生でも、孤独感や劣等感に悩んでいる者は少なくありません(金子聡「メリトクラシー(能力原理)の貫徹としての差別からの解放―自尊心の破壊による生の破壊の可能性―」、『季論21』第24号、本の泉社、2014年春号)。

筆者はその原因は、社会心理学者のエーリッヒ・フロムがいうセルフ・ラブの欠如にあると思います。

ここではフロムがいうセルフ・ラブを紹介します。

セルフ・ラブと他者への愛は対立するのか?

ルッターやカルヴァン、またカントやフロイトの思想の根底にある仮説は利己主義(Selfishness)とセルフ・ラブとは同じものであるという考え方である。すなわち他人を愛するのは徳であり、自分を愛するのは罪であり、さらに他人にたいする愛と自己にたいする愛とはたがいに相容れないという考えである。これは、愛の性質について、理論的に間違った考えである(エーリッヒ・フロム[日高六郎訳]『自由からの逃走』東京創元社、1965年、p.131)。

愛とは何か

憎悪は破壊を求めるはげしい欲望であり、愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求である。すなわち愛は「好むこと(affect)」ではなくして、その対象の幸福、成長、自由を目指す積極的な追求であり、内面的なつながりである。それは原則として、われわれをも含めたすべての人間やすべての事物に向けられるよう準備されている。排他的な愛というのはそれ自身一つの矛盾である(同上書、p.131)。

セルフ・ラブと利己主義の違い

利己主義とセルフ・ラブとは同一のものではなく、まさに逆のものである。利己主義は貪欲(greediness)の一つである。すべての貪欲と同じく、それは一つの不充足感をもっており、その結果、そこには本当の満足は存在しない。貪欲は底知れぬ落し穴で、けっして満足しない欲求をどこまでも追求させて、人間を疲れさせる。よく観察すると、利己的な人間は、いつでも不安気に自分のことばかり考えているのに、けっして満足せず、常に落ちつかず、十分なものをえていないとか、なにかを取り逃がしているとか、なにかを奪われているとかという恐怖に、かり立てられている。彼は自分よりも多くのものをもっている人間に、燃えるような嫉妬(envy)を抱いている。更に綿密に観察し、とくに無意識的に動的な運動を観察してみると、この種の人間は、根本的には自分自身を好んでおらず、深い自己嫌悪をもっていることがわかる(同上書、pp.132~133)。

セルフ・ラブとナルシシズムの違い

これと同じようなことは、ナルシス的人間にもあてはまる。かれは自分自身のために物をえようと腐心するかわりに、自分自身を賞賛することに気をかけている人間である。このような人間は、表面的には自分自身を非常に愛しているように見えるが、実際は自分自身を好んでいないのであり、かれらのナルシシズムは――利己主義と同じように――セルフ・ラブが根本的に欠けていることを、無理に償おうとする結果である(同上書、p.133)。

おわりに

フロムによれば、セルフ・ラブと利己主義やナルシシズムとは違うものです。

セルフ・ラブは、自他を愛するラブです。それは、自己嫌悪から人間を解放します。

逆に利己主義やナルシシズムは、一見、自分を愛しているように見えますが、本当は自分を愛しておらず、自己嫌悪に陥り、疲弊し、充足感に至りません。

現代世界の正義の基礎は、人権です。しかし、日本国民はまだ人権を「受肉」していない可能性もあります。恐らく人権を「受肉」するには理性と共に友愛も必要です。ここでは友愛をエーリッヒ・フロムが考える「愛(love)」と展開して、人権の「受肉」を試みます。
愛と正義はどのような関係にあるのでしょうか。イエズス会が愛(charity,love)と正義の関係をどう考えているのかを、1986年の『イエズス会の教育の特徴』の原文から直接引用して紹介します。

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