はじめに
多くの法ではメリトクラシー(能力原理)と機会均等原理が結合し、公正な機会均等原理を構成しています。それはジョン・ロールズの正義論の公正な機会均等原理でもそうです。しかし、能力を機会の分配基準にした場合、不平等が再生産されるだけでなく、「人間」が非「人間」化して、「普遍(Universal)」としての人権の主体でなくなる可能性があります。
世界人権宣言の第26条「教育への権利」
世界人権宣言第26条でもメリトクラシーが部分的に確認出来ます。
Everyone has the right to education. Education shall be free, at least in the elementary and fundamental stages. Elementary education shall be compulsory. Technical and professional education shall be made generally available and higher education shall be equally accessible to all on the basis of merit.
http://www.un.org/en/universal-declaration-human-rights/index.html
http://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html
教育への権利では、「技術的あるいは職業的教育(Technical and professional education)」は、「一般的に(generally)」にアクセス出来るとされます。これらの教育は「中等教育」とは表現されてないことが確認出来ます。そうするとそれらの教育は初等のあるいは基礎教育でも、高等教育でも良い可能性があります。また、高等教育は、全て“ merit”を基礎に「万人(all)」が「平等に(equally)」にアクセス出来るとされます。
“ merit”には、次のような意味があります。
①優秀さ、価値、長所、取柄、美点。
②真価、当然の賞。
③手柄、勲功、功績、勲章。
④功徳。
教育や学校の文脈では、一般的に“ merit”は「成績の優秀さ」を意味します。そうすると高等教育の機会は、成績の優秀さを基準に分配されることになります。ここから世界人権宣言でも高等教育の公正な機会均等原理はメリトクラシーであることが確認出来ます。
日本の「教育を受ける権利」
これは日本でも基本的にそうです。
日本国憲法第26条「教育を受ける権利」では、次のように規定されています。
すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
ここから日本でも義務教育以外の教育機会は、「能力」を基準に分配されていることが確認出来ます。
旧教育基本法第3条「教育の機会均等」では憲法第26条が継承・展開されています。
すべての国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。
ここでは能力を基準にした教育機会均等原理は、教育差別禁止原理としてある意味で積極的に展開されていることが確認出来ます。逆に言えば、能力を基準にした教育機会の分配は、差別ではないという立場の表明でもあります。
改正教育基本法第4条(教育の機会均等)でも上記の条文はそのまま継承されました。また、障害者教育の規定も加えられ、「障害の状態」を基準に「十分な」教育機会が分配されるとされました。
このように日本の法でも公正な教育機会均等原理は、一部の例外(障害者)を除きメリトクラシーと結合していることが確認出来ます。
メリトクラシーと結合した公正な機会均等原理の問題
一般的にもメリトクラシーは差別ではないと考えられています。それは事典等にも現れています。
(前略)近ごろ能力主義に基づく昇進機会や賃金の格差づけが広まってきているが、これを差別として批判する人はいない。それらは“正当”なものとして社会的に承認されているからである。不平等な処遇が差別として批判の対象になるのは、それが当該社会においては“正当化”されえないからである(山口節朗「差別」、『岩波社会思想事典』岩波書店、1998年)。
それに対し堀尾輝久東大名誉教授は、1962=1971年の博士論文以来、「大衆国家=福祉国家」のメリトクラシーを批判し続けています(堀尾輝久『現代教育の思想と構造—国民の教育権と教育の自由の確立のために—』岩波書店、1971年)。
ポイントは二つあります。
①能力形成の諸条件、特に社会経済的条件は不平等であるのでメリトクラシーは不平等や階級構造を再生産すること。
②エリートの冷酷化と非エリートの無気力化。
1978年に堀尾教授はポイント②を次のように説明しました。
学校が競争と選別の機能を効率的に果たすことが求められるほどに、落ちこぼされた無気力な青年と、ライバルをけ落として動じない冷酷なエリート生み出されている」堀尾輝久「教育における平等と個性化—価値意識の変革に向けて—」、『教育』第28巻第12号、国土社、1978年11月、p.88)。
1997年にも堀尾教授は、東京大学の学生のような受験競争の勝者にも孤独感や劣等感が強い人間がおり、メリトクラシーは受験競争の勝者、敗者ともに「人間としての誇りを傷つけ、その他人を見る眼差しを冷たくし、人間を見る目をくもらせ、人と人とのつながりを切り裂いていく」と指摘しています(堀尾輝久『現代社会と教育』岩波新書、1997年、p.108)。
堀尾教授はメリトクラシーと結合した公正な機会均等原理の問題を指摘しています。しかし、実証の問題は残されています。従って現段階では事実認識として正しいと判断出来ないと思います。しかし、非常に重要な仮説を提起していると評価することは出来ると思います。
堀尾教授が指摘するメリトクラシーと結合した公正な機会均等原理の問題は、人権、特に世界人権宣言の「人間」観を踏まえると、「人間」の非「人間」化あるいはヒトの「人間」への「発展(development)」不全とも解釈することも出来ます。
世界人権宣言の「人間」観は、理性、良心、友愛の精神を持つ存在です。堀尾教授の指摘が正しければ、メリトクラシーは「人間」の構成要素である友愛の精神を破壊し、ヒトを「冷酷」にします。冷酷とは、思いやりがないこと、酷いこと(残酷であること、無慈悲であること)、無慈悲(慈悲=仏や菩薩が衆生を憐れみ、慈しむ心)であることを意味します。そうすると冷酷は、思いやり等の反対語であることになります。
「思いやり」という英語は、“humanity”です。“humanity”には、「人間性」、「人情」、「慈愛」、「慈悲」、「親切」という意味もあります。「思いやりがある」という英語は、“human”です。“human”には、「人間的な」、「人間らしい」、「人間にありがちな」等の意味があります。反対語の「冷酷な」という英語は、“inhuman”です。“inhuman”には、「不人情な」、「残酷な」、「非人間的な」、「人間に相応しくない」、「人間と違う」等の意味もあります。そうすると英語の“human”には、「人間=思いやりがある存在=友愛の精神を持つ存在」という意味が刻印されていることになります。それを踏まえると、メリトクラシーと結合した公正な機会均等原理は、英語の意味でもヒトを非「人間」化させる可能性があります。
メリトクラシーと結合した公正な機会均等原理によるエリートの「冷酷化」の一事例
メリトクラシーと結合した公正な機会均等原理によるエリートの「冷酷化」の事例を一人挙げます。それは山形県鶴岡市出身で、上智大学の卒業生で、京都座会のメンバーでもあった、カトリック信者の渡部昇一上智大学名誉教授です。2001年に渡部教授は次のような「不平等主義」を提唱しました。
たとえば藤原紀香や松嶋奈々子は、「美しい」という理由によって何億円もの収入を稼いでいる。普通の女性、あるいは美しくない女性が、「こんな不平等なことがあっていいのか」と抗議したところで、これは仕方がない。もし「日本の女性をみんな平等にせよ」と唱えたとしても、日本の女性をすべて美女にすることは不可能である。しかし、日本の女性をすべて不美人にすることは、じつは簡単である。「女の子が生まれたら、三日以内に鼻に焼きゴテを当てるべし」という法律をつくればよいのである。これで日本中の女性はみんな平等に不美人になる。みんな美人にはできないが、みんな不美人にすることはできる。極端な例ではあるが、平等主義とはこういうものである。(中略)「平等」とは「一番悪いほうに合わせる」以外には実現し得ない。そのことを日本人ははっきりと認識すべきである。ほんとうに貧しい人に対しては当然、社会政策として最低限の救いがあってよい。ただし、その最低限は「飢えず、凍えず、雨露に当たらず、痛みをなくする程度の医療」であって、それ以上の面倒を国家が見る必要はない。「そこで諦める人はそのまま人生を送って下さい。しばらく羽を休めてから立ち上がって仕事に入る人はそれもよろしい」とするのが望ましい姿であろう。それ以上を与えれば、与えられた人間は必ず堕落する。本来平等ではあり得ないものを平等にしようというのは土台無茶な話なのである(渡部昇一『不平等主義のすすめ—二十世紀の呪縛を超えて—』PHP研究所、2001年、pp.45~47)。
渡部教授は全ての女性を美人には出来ないが不美人にはすることは出来ると考え、平等主義を「一番悪いほうに合わせる」ものとして退け、社会政策を最低限の救いに限定することを提案しました。ここから彼は「冷酷なエリート」と評価出来ると思います。
おわりに
メリトクラシーと結合した公正な機会均等原理には、次のような問題がある可能性があります。
①不平等の再生産。
②エリートの非「人間」化。
③非エリートの無気力化あるいは非「人間」化。
これらの問題は、日本では国民や人民は、「普遍」としての人権の主体では無くなる可能性を示唆していると思います。
今回は②の問題を中心に考えました。②の問題は、2014年に“clomb out”の視点から論じたことがあります。
金子聡「メリトクラシー(能力原理)の貫徹としての差別からの解放—自尊心の破壊による生の破壊の可能性—」、『季論21』編集委員会編『季論21』第24号、本の泉社、2014年春号。
現在でも、メリトクラシーと結合した公正な機会均等原理には、差別禁止原理としての側面があります。そうするとそれは全否定は出来ないと思います。しかし、もしここで論じたような問題が真にあるとしたら、何等かの調整は必要になると思います。実際、差異に配慮した「逆差別」政策(アファーマティブ・アクション)を展開した/する国もあります。しかし、その政策にも問題が無いとは断言出来ません。いずれにせよこの問題は複眼的に注意深く考える必要があると思います。