はじめに
戦後の日本では、「社会」は「階級社会」として論じられる傾向がありました。政治学者の松下圭一や教育学者の堀尾輝久の「大衆国家」論もそうでした。しかし、米ソ冷戦終結以降、「社会」は「格差社会」として論じられ始めました。
神野直彦と宮本太郎は、橘木俊詔『日本の経済格差ー所得と資産から考えるー』(岩波新書、1998年)を「格差社会論が燃え上がる火付け役」と評価しています(神野直彦+宮本太郎「はじめに」、同編『脱「格差社会」への戦略』岩波書店、2006年、p.ⅵ)。
しかし、「階級社会」と「不平等社会」と「格差社会」の差異は、必ずしも明確に論じられていません。ここでは「格差社会」とは何か、少し考えます。
「不平等」と「格差」の一般的な意味
『広辞苑(第6版)』(岩波書店、2008年)によれば、「不平等」とは「平等でないこと」です。「平等」とは「かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと」です。
「かたより」とは、「一方に寄ること」、「傾くこと」です。
「差別」とは、①「差をつけて取り扱うこと」、「わけへだて」、「正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと」、②「区別すること」、「けじめ」です。
「差」とは、①「性質・状態のへだたり」、「ちがい」、②「一つの数値と他の数値との間のひらき」です。
「格差」とは、「商品の標準品に対する品位の差」、「価格・資格・等級・生活水準などの差」です。
「不平等」と「格差」を比較すると、「不平等」には規範的なニュアンスがあるのに対し、「格差」にはより中立的なニュアンスがあります。
「格差社会」論における「格差」の意味
神野と宮本は、「格差社会」の「格差」を次の指標で捉えています(神野直彦+宮本太郎「はじめに」、同編『脱「格差社会」への戦略』岩波書店、2006年)。
①ジニ係数。
②「相対的貧困率=可処分所得」。
二人は、「不平等」ではなく「格差」というタームを使用して、生活水準などの「差」を表現しています。しかし、二人は「格差」を中立的ではなく規範的なニュアンスで使用しています。つまり二人は「不平等」の意味で「格差」というタームを使用しています。
しかも、二人は「格差」の反対語として「平等」を使用しています。
「平等社会」という「常識」は、格差問題の深刻化という現状によって覆されてしまった。日本が「平等社会」か「格差社会」かという議論は、今では懐かしい思い出話になってしまっている(神野直彦+宮本太郎「はじめに」、同編『脱「格差社会」への戦略』岩波書店、2006年、p.ⅷ)。
二人は「不平等社会」の意味で「格差社会」というタームを使用している訳です。しかし、その理由は説明されていません。
しかも、二人は意識的に「不平等」と「格差」を区別して使用している訳でもありません。
とくに格差の大きな社会では、人々の資質・能力もまた生まれや育ちによって分岐する。こうした問題が放置される限り、機会は決して均等には訪れない。したがって、機会の平等を実質化することを構想したドゥウォーキン教授は、「意欲ambitionは反映する来歴endowmentを反映しない」かたちで分配をおこなう制度を求めた(ロナルド・ドゥウォーキン『平等とは何か』木鐸社)。つまり、出生時の貧困やそれに起因する能力の格差などの偶発的要素がコントロールされ、補償されるべきであるとしたのである(神野直彦+宮本太郎「「格差社会」を超えるために」、同編『脱「格差社会」への戦略』岩波書店、2006年、pp.200~201)。
神野と宮本は、ドゥウォーキンが「(不)平等」と表現したものを「格差」と表現し直していることが確認出来ます。しかし、理由は説明されていません。なぜ二人は「不平等」を「格差」と表現するのでしょうか。
「階級社会」と「不平等社会」と「格差社会」
左翼は日本をはじめとする先進資本主義諸国の社会を「階級社会」と表現して来ました。左翼は社会的経済的不平等は「階級」に収斂されると考えるので、「階級社会=不平等社会」でした。1962=1971年の堀尾もそう考えました。
さて、この社会的環境の不平等は、すでにのべたように、今日においては、経済的不平等、階級的差別に集中的に現れている。したがって、社会環境の不平等をなくし、環境整備をとくことは、実は「階級の止揚」の要求(平等要求の今日的形態)として自覚化しなければならない(堀尾輝久『現代教育の思想と構造―国民の教育権と教育の自由の確立のために―』岩波書店、1971年、p.254)。
左翼は「大衆国家=福祉国家」で階級間流動性を拡大しても、問題の根本的な解決にはならないと考えました。そこから左翼は「大衆国家=福祉国家」の階級間流動性の拡大を評価しませんでした。
この問題の捉え方は、公教育制度等による「格差」の固定化を問題とする捉え方とは、根本的に違います。
従って堀尾のような左翼は、これまで「格差社会」というタームは使用しませんでした。
「階級社会」と「格差社会」の接点
しかし、「階級社会」と「格差社会」には接点もあり明確に区別することは出来ません。
現在では「労働者階級(プロレタリアート)」というタームは、余り使用されなくなりました。
現在も社会主義を目指す日本共産党も、2004年の綱領では「労働者階級(プロレタリアート)」というタームは使用していません。
日本共産党は、国民的な共同と団結をめざすこの運動で、先頭にたって推進する役割を果たさなければならない。日本共産党が、高い政治的、理論的な力量と、労働者をはじめ国民諸階層と広く深く結びついた強大な組織力をもって発展することは、統一戦線の発展のための決定的な条件となる。
日本共産党は、社会主義への前進の方向を支持するすべての党派や人びとと協力する統一戦線政策を堅持し、勤労市民、農漁民、中小企業家にたいしては、その利益を尊重しつつ、社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進むよう努力する。
日本共産党も、「労働者」や「勤労市民」というタームを使用しています。
しかし、社会学者の橋本健二は、現在でも「階級」にはアクチュアリティがあると評価しています。
二〇〇三年の相関比は二〇%である。つまり、年齢、性別、学歴、地域、そして個人差など、さまざまな要因による収入格差があるなかで、階級と関係のある格差は全体の二割を占めている。学歴の相関比は二%にすぎず、性別の相関比は二四%だから、階級による格差は、学歴による格差よりはるかに大きく、性別の格差にほぼ匹敵することになる。そしてて階級の相関比は、八五年は一六%、九五年は一八%で、一貫して増加している。つまり、近年の格差拡大には階級間格差の拡大という色彩が強く、この意味で現代日本は、階級社会としての性格を強めているのである(橋本健二「「格差社会」と教育機会の不平等」、神野直彦+宮本太郎編『脱「格差社会」への戦略』岩波書店、2006年、p.160)。
おわりに
一般的な意味での「格差社会」とは、生活水準等に「差」がある社会です。そうすると「差」と差別を伴う「不平等」は、区別する必要があります。「格差社会=不平等社会」ではありません。しかし、「格差」と「不平等」が混同される「格差社会」論では、その差異が十分に意識されていません。
恐らく「格差社会」は、最も大きな概念です。その中に規範的に退けられるべき「不平等社会」があります。そしてその中に「不平等」を「階級」に収斂する「階級社会」があります。
そうすると「格差社会」は必ず規範的に退けられるべき社会とは評価出来ません。しかし、現在の論調ではそういう傾向があるように思います。
恐らく重要なことは、「差としての格差」と差別を伴う「不平等」を分析的に区別することだと思います。