「大衆国家」のメリトクラシーによる「人間」破壊

はじめに

政治学者の松下圭一によれば、「大衆国家」では普通選挙権が保障され、<大衆>は体制の主体とされましたが、実は操作の客体であり、内面が空洞化される危機に陥り、政治的に無関心になります。

丸山眞男の弟子の堀尾輝久は、「大衆国家」のメリトクラシーの問題を突破しようとしました。堀尾の「大衆国家」論は、同じく丸山の弟子の松下圭一の「大衆国家」論を教育学的に展開したものです。松下の「大衆国家」論のエッセンスを紹介します。

「大衆国家」は、「福祉国家」でもあります。「福祉国家」では教育機会が拡大する傾向があります。

日本でも1970年代に入ると後期中等教育が拡大しユニバーサル化しました。その後、高等教育も大衆化し、現在ではユニバーサル化しています。

しかし、松下の「大衆国家」論を教育学的に展開した堀尾輝久は、遅くとも1970年代からメリトクラシーによるエリートの「冷酷化」を批判し続けています。

「逆コース」の中の1962=1971年の博士論文で堀尾輝久は現代国家を「大衆国家=福祉国家」と把握し、そのメリトクラシー(能力原理)の問題を批判しました。後期中等教育がユニバーサル化した1970年代以降、堀尾はエリート「冷酷化」論を展開しました。

遅くとも1990年代には、堀尾はエリートも非エリートもメリトクラシーにより“well-being”を低下させていると考えるようになります。

「冷酷化」や“well-being”の低下は、ある意味で「人間」(理性、良心、友愛の精神を持つヒト=世界人権宣言第1条)の破壊です。

ではなぜ「大衆国家」のメリトクラシーは、「人間」を破壊するのでしょうか。ここでは堀尾の「大衆国家」における教育機会均等の機能に関する教育思想史的分析を手掛かりに考えます。

なお敬称は省略します。

機会均等原則の「社会的重要性」の獲得

この原則は、自由と平等が古典的調和を実質的にも保っていた間は、まさに自由=平等原則の部分として、両者を媒介する機能をもっており、それ自体としての意味は、それほど重要ではなかった(堀尾輝久『現代教育の思想と構造―国民の教育権と教育の自由の確立のために―』岩波書店、1971年、p.219)。

機会均等原則は、まさしく、自由と平等の調和が破られた時点で、その原則の社会的重要性を獲得する。すなわち、この対立の時点で、平等を形式的平等に矮小化し、形式的平等即機会の平等(均等)として、従って、むしろ実質的平等の対立物として、競争の自由と実質的不平等の合理化の原理として、その社会的意味を獲得したといえよう(同上書、p.219)。

産業革命による自由と平等の対立

しかし、とりわけ産業革命を契機として資本主義が平等を破壊し、自由が不平等を拡大する原理に転化したとき、自由のコロラリーであった機会均等が、なお外的条件(環境)の平等を論理的に前提する古典的理念に忠実であろうとすれば、それは、現実にある外的条件(環境)の不平等に目をつぶるわけにいかなくなり、これは、現実に平等を要請する理論(社会主義)との親和性をもつようになってくる。このことは、機会均等原則一般についていえる(同上書、pp.232~233)。

「福祉国家(大衆国家)」の登場

自由競争的資本主義の矛盾の激化と、社会主義の思想と運動の前に、資本主義はその原理の修正を余儀なくされる。それは国家介入による個人主義の修正であり、国家理想主義的集団主義による自由競争の制限である。別名、福祉国家の理論。しかし、福祉国家も独占段階に照応する資本主義国家の一形態である限り、そこでも階級的不平等は破棄されることはない。矛盾は意図的に潜在化させられたにすぎなかった(同上書、p.220)。

「福祉国家(大衆国家)」における機会均等原則の変化

機会均等原則とは、一般的にいえば、競争=選抜の原則である。ところで、個人主義的競争の原則としてのそれは、競争=選抜の原則として、競争の自由に力点がおかれる。これに対して、福祉国家段階での団体主義的社会選抜の原則としてのそれは、競争=選抜の原則として、力点が社会の側に移り、選抜に際しての公正の原則(能力と適性に応じる原則)と同義的になる(中略)この段階ではじめて、教育はソーシャル・エレヴェーターとしてその社会的機能を明確にし、社会的選抜の原理としての教育の機会均等原理がクローズ・アップされてくる(同上書、pp.223~224)。

「福祉国家(大衆国家)=独占資本主義」体制内部の流動化

平等思想と切断された教育の機会均等(教育の機会均等の体制的理解)をてことする、体制内部の流動化は、体制それ自体の安定化に役立つ。だから、義務教育思想と結びついた教育体系の一元化と公開化は、それによって下層階級の有能な人材を体制内部に吸収馴化し、階級に流動性を与えることによって支配に柔軟性を与え、そのことによって資本主義的階級体制の安定化に寄与しているという側面にこそ注意がむけられなければならないだろう(同上書、p.234)。

教育機会均等原則と統一学校を越える問題

こうしてわれわれの問題関心は、教育機会均等原則と統一学校の進歩性を強調する次元を超えた問題に向けられる。すなわち、教育の閉鎖的階級的二重組織が止揚され、一元化した開放的制度の本質が、今日なお階級的性格をもつという問題である(同上書、pp.234~235)。

さらにこの問題とパラレルに、能力と適性に応じた教育をすべての国民に与えるという、教育における公正(イクイテイ)原則が、同時に社会の階級構成に応じる社会成員の再生産のための原則にすりかえられ、現状維持のための社会的選抜原則に堕してしまうという問題である(同上書、p.235)。

すなわち、ひとりひとりの人間的ゆたかさを、その能力と適性にふさわしく最大限に開花させるという、人類の理想に導かれた、多様な学校と、多種なカリキュラムからなる教育体系の要求が、実は、資本主義的分業と、産業構造の分化にもとづく階層的産業社会の分岐的学校体系の要求によって、その形態上の或る種の類似性の故に容易にすりかえられ、そしてこの体制要求が教育の公正の理念から説明され、合理化されることの問題である(同上書、p.235)。

考察

堀尾によれば、「大衆国家=福祉国家」では、教育はソーシャル・エレヴェーターとしての機能を明確にし、社会的選抜の原理としての教育の機会均等原理がクローズ・アップされます。

堀尾も使用した「階級」概念を使用すれば、ソーシャル・エレヴェーターとは「労働者階級」から「新中間階級」への上昇を意味します。具体的に言えば、農民や漁民や肉体労働者(ブルーカラー)の子どもが教育を受けて、メガバンク(例えば、みずほ銀行、三井住友銀行、三菱UFJ銀行等)や総合商社(例えば、三菱商事、三井物産、住友商事等)のような大企業の社員(ホワイトカラー)やNHKの職員や公務員や教師等になったりすることです。これは多くの国民が「良い人生」と考えて来たライフデザインだと思います。

これは以前は「解放」教育と考えられました。しかし、現在もこう考える人々はいるかも知れません(例えば、左翼教育学者、「解放」の考え方は妥当だが実現出来ないと考える(教育)社会学者等)。

しかし、ソーシャル・エレヴェーターとしての教育にも、デメリットやリスクもあります。

第一のデメリットは、教育のソーシャル・エレヴェーター機能は人々が考える程高くはなく、期待外れに終わる可能性も高いことです(例えば、苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史―』中公新書、1995年等)。

所謂「一流大学」(例えば、東大、京大、一橋大、筑波大、早大、慶大、上智大?(バブル期には「早慶上智」と呼ばれました)等)まで進学出来ても、「新中間階級」になれる保証はありません(有力なコネクションの持主は除く)。なれない卒業生もいます。また、女性、障害者等の場合は、「一流大学」の卒業生でも就職出来ない人もいるでしょう。

(「一流大学」かは不明ですが、日大芸術学部出身の作家の林真理子はなかかな就職出来ませんでした(林真理子『野心のすすめ』講談社現代新書、2013年)。その後、林は「子連れ出勤」を巡り上智大出身(卒業はしていないようです)の歌手のアグネス・チャンと論争し始めました(妙木忍「ライフコースの多様化が生み出す女性間比較―「アグネス論争」の言説分析―」、『女性学( 日本女性学会学会誌)』第13号、新水社、2005年)。「階級」闘争の一形態でしょうか?)。

最近では、医科大学や医学部等では、就職以前に入学試験段階で男女差別がまだあることも明らかになりました。そうするとメリトクラシー以前ということになります。しかし、学校でメリトクラシーが貫徹しても、別の新しい苦悩が待っているでしょう(問題は転移しただけでしょうか?)。

第二のデメリットは、「一流大学」卒業後にうまく「新中間階級」になれても、日本の大企業等には、「優良企業」と評価するのが難しい程、労働条件が非常に厳しい会社もあり、耐えられずに直ぐに退職することも良くあることです。また、退職しなくても、過労死したり自殺したりすることもあります(例えば、電通等)。そうすると何のために働いているのか、更には何のために生きているのかも分からなくなるでしょう(「生き甲斐の喪失」)。

第三のデメリットは、「人格」形成や「人間」形成を担う学校が、協力や連帯ではなく競争や選抜の場となり、本来の機能を果たし難くなることです。また、教育が「人格」や「人間」形成の視点からではなく、受験や選抜の視点から編成されるようになり、教育の非「教育」化が進行することです(例えば、予備校のような私立学校等)。そうすると偏差値を最高価値とし、より高い偏差値を目指す「受験オタク」にはなれても、「人格」を持つ「人間」にはなれなくなる可能性もあります(「受験オタク」の悲劇)。

はじめに 一般的に「公正な機会均等原理(=差別禁止原理)」は、「メリトクラシー(能力原理)」とされます。 メリトクラシーは人権にも確...

第四のデメリットは、教育による「階級」等の集団の分解・分化に伴う怨念や憎悪や嫉妬の助長であり、「弱者」等への関心の低下や社会的責任や義務の感覚の麻痺です(現代的な表現では、「人権感覚」や「シチズンシップ」の破壊)。

はじめに 渡部昇一は1930年に山形県鶴岡市で生まれた英語学者、カトリック=イエズス会系上智大学名誉教授である。 上智大学文学部英文...

リスクは、“climb out”による自尊感情やアイデンティティの損傷や破壊です。神経症等の精神疾患を発症し、カウンセリングや治療が必要になり、量的に拡大する学校ではカウンセリングセンター等が設置され、大学ではカウンセラーを養成する為に心理学科が設置される傾向が拡大した可能性はあります。

以上のデメリットとリスクは、「人間」破壊を招く「新しい疎外」と呼ぶことも出来るかも知れません。

2000年代以降の「格差社会」論では、教育による「階級」あるいは「階層」等のカテゴリー間の社会経済的不平等の再生産や固定化が問題とされています。そこでは暗黙のうちに教育のソーシャル・エレヴェーター機能が肯定されています。しかし、根本的な問題は、教育のソーシャル・エレヴェーター機能そのものにあるのではないでしょうか。

1971年段階では、堀尾は「教育における正義の原則」により「階級の廃止=「福祉国家(大衆国家)=独占資本主義」体制の変換・変革≠革命」を目指しました。しかし、1971年以降の研究成果も広く摂取しつつ、救済策を良く考える必要があると思います。

例えば、1980年代以降、教育行政学者の黒崎勲はリベラリズム(ジョン・ロールズの正義論)の可能性を追求しました(黒崎勲「『能力主義』の現段階」、『教育』第33巻第2号、国土社、1983年2月。同『現代日本の教育と能力主義―共通教育から新しい多様化へ―』岩波書店、1995年)。

また、1990年代以降、教育学者の小玉重夫はハンナ・アレントの公共性(「人間」の複数性)の可能性を追求しました(小玉重夫『教育改革と公共性―-ボウルズ=ギンタスからハンナ・アレントへ―』東京大学出版会、1999年)。

政治哲学者の井上彰は、左派リバタニアニズムも射程に入れ、平等主義的正義論の可能性を独自に追求しています(井上彰『正義・平等・責任―平等主義的正義論の新たな展開―』岩波書店、2017年)。

堀尾自身は、米ソ冷戦が終結しソ連が崩壊した1990年代以降、「地球時代」説を提唱し、「差異を貫く普遍」の可能性を追求しています(堀尾輝久『現代社会と教育』岩波新書、1997年、pp.21~23。同「子どもの権利とは何か―人権・子どもの権利・子どもの人権―」、『自由と正義』第61巻第12号、日本弁護士連合会、2010年10月)。

既存の選択肢を深めるとともに、良く考えて日本や世界の選択肢の幅を更に広げることも重要だと思います。

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